maimaiomaiのブログ

アイルランドと日本の狭間で 言葉を解き、紡ぎなおす者として

赤ペン先生、しばしお静かに

 

いつもは、人の言葉や文章を翻訳しているので、時には自分から湧き上がる言葉を…と思いブログを始めたのだが、昨年の夏も同じような目的で、ダブリンにあるIrish Writers Centerというところで現役の詩人の方から指導していただけるライティングのクラスを受講した。

 

 

ネッサ・オーマーニーさんという作家さんが私の先生であった。もう何冊も本を出版なさっている素敵な現役の詩人さんである。

 

「私の母親の名前もMaiなのよ、偶然ね」、ネッサさんは私の名前を見るや否やそう言った。発音はちょっと違うものの、アイルランドでもMaiという名前は珍しくない。アイルランドでは有名な劇作家、Marina Carrさんの書いた作品にも「The Mai」という作品がある。その主人公の名前がMaiなのだ。

 

 

ベケットラフカディオ・ハーンオスカー・ワイルドジョナサン・スウィフトなどの展示が行われているIrish Writers Museumアイルランド作家の博物館)の隣に併設されたIrish Writers Centerでは、そういう現役の作家さんを呼んで、あらゆるジャンル(童話作家、エッセイスト、劇作家、詩人、小説家など)の「書く」講座を定期的に設けている。

 

 

 

日本でも、翻訳兼ライティング関係の授業を何回か受講したことがあるのだが、宿題をパソコンでプリントアウトしたものを提出し、赤ペンで添削したものが返ってくるという仕組みであった。

 

それはそれでとっても大事な過程なのだが、やはりどうしても、あの「赤ペン」というのは、見る度に気分が萎えてしまう。汗水流して提出したものが、赤だらけで返ってきた時のあの絶望感ったらない。

 

 

あれがあったからこそ今があるのだが、こういう過程に慣れてくると、やがて、「自分の満足のいくもの」を追求するよりも、「如何に赤ペンを避けるか」というような思考になり、間違ったモチベーションの下、どんどん自己防衛力だけが進化していくことがある。

 

 

この講座では、決して宿題を強制もしないし、提出もしない。書いてきたら、自主的に手を挙げ、みんなの前で自分で読み上げるという流れであった。

ようは、すべてが自分次第なのである。

 

自分で書いてきたものを、人前で読む恐ろしさよ!

 

朗読講座のように、例えば宮沢賢治などのウットリするような文章を読み上げるのとは違う。自分が一字一句書いたものを、責任を持って自分で声に出して読むのだから、もう穴があったら入りたいくらい恥ずかしいのだ。

 

 

ただ、声に出して読むと、人に言われなくても、いまいちな部分は「いまいち」と、背伸びしたなぁと思う部分は「背伸びしたな」と、自分に嘘ついたなと思う部分は「自分に嘘をついた」と自覚していくから面白い。そんな風にして、最も身の丈な言葉があぶりだされていく。

 

先生は細かいところを指摘することは一切せず、逆に「このキャラクターは、なぜ、こういうことをしたの?」といった質問をしながら、丁寧に導いてくれる。

授業の後、汗水流して書いた文章に赤ペンはない。が、「あそこを書きなおそう」、終わった後はそんな前向きな欲求が湧いてくるのだった。

 

 

 

最初の授業から、前の夜に見た夢を書き出すという課題を出されたのだが、全体的に授業の流れが非常にクリエイティブだった。演技やダンスなどのワークショップと何も変わらない。要は、自分の核心と触れる、とても贅沢な作業なのだ。

時に私たちは、赤ペン先生に囚われ、この核心の部分を置いてけぼりにしてしまう。

 

自分の創造性と言う名の風船が、プチっと針で刺激され、中から何かがこぼれ出てくるような感覚だった。

 

 

 

受講者の3人くらいは、子育てを終えた60代くらいの女性たちだった。

一人は、娘にこの講座をプレゼントされたといって、コークという街から3時間かけて通ってらした。

何十年もの間、創造性を押し込めてきたのだろうか。

やはり、彼女たちの豊かな生き様から語られる言葉の重みにはとてもとてもかなわない。

 

 

さて…私の創造力が少し復活したところで、「赤ペン先生、どうぞお戻りください」と重い口を開けてみる。

 

 

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