maimaiomaiのブログ

アイルランドと日本の狭間で 言葉を解き、紡ぎなおす者として

最後のひとかけら

言葉というのは、絶えず、かならず他の言葉とぶつかる。

ぶつかるというか、重なっていくわけですね。

                          井上ひさし

 

何かが足りないのは分かっているが、何が足りないのかが分からない。そんな悶々とした日々を過ごし、ふとある朝、歯を磨きながら、そのミッシングピースの正体が突然判明することがある。すると今までの悩みが嘘のように、すべてが滑らかに進む。そんなことが、人生には多々あるように思う。

 

ダブリンに暮らしていると、メンターシップという言葉によく出会う。日本でも、ビジネスの世界では多用されているみたいだが、芸術の世界ではあまり聞いたことがない。しかしアイルランドでは、演劇や舞台芸術の世界で、よく目にする言葉だ。

 

 

メンターは、よき指導者、相談相手、庇護者、よき師、恩師、などと訳される。自信がないのに押し付けられるのが苦手な私にとって、このメンターシップというシステムはまさに、私の創作生活におけるミッシングピースだった。

 

私の体験したメンターシップは、指導ではなく、尋問。押し付けることなく、見守る。いまだかつてないほど自分と向き合わざるを得なかったが、誰かに言われたのではなく自分で選択したのだという歴史が、自信につながった。

 

 

メンターは考えが甘かったり自分に嘘をついていたりすると、それを見抜き、スキをつついてくる。これはなんでなの、ここはどういうこと?ここは、実際どうやるの?などと聞かれていくうちに調べものも増え、本当はどうしたいのかを自分自身に問い続けていくうちに自ずと納得いく形が見えてくる。答えはいつも自分の中にあるのだが、人間である限り、どうしてもそこから目をそらしてしまう。そんな時、経験も知恵も豊かなメンターがそっと手を差し伸べる。

 

アイルランドでは、こういったメンターシップシステムが、駆け出しの作家や演出家を支えている。新人作家が書いた作品に対して、ディスカッション、ドラマツルギー面でのサポート、メンターシップなど、手厚いサポートシステムが沢山用意されている。こういういくつもの段階を経て、ようやく本が舞台に上がる。戯曲が紙の段階で完成とみなされることは、ベテランでない限り、ほぼないのではないだろうか。

 

 

外来語が雨のように降り注ぐ昨今。日本語が崩れている、と嘆く方の気持ちもとてもよくわかるが、私にとって、このメンターシップという言葉は、パズルの最後のピースように、すっぽりと私の身体にはまった。そういったところを見ると、やはり私は根無し草なのだと感じる。

 

異文化の未知の概念が自分とぴったり重なったとき、はじめて飛べるなんてこともあるのかもしれない。

 

 

飛ぶといえば、最近、あちこちで小鳥の赤ちゃんを見かける。庭に出ると、幼い小鳥の泣き声があたりに響き渡る。相変わらず、小鳥マニアとして、小鳥の赤ちゃんを追いかけては観察しているのだが、親の残酷な面が垣間見えて、興味深い。子供が病気だとわかると、巣から蹴落としたり、もう生き延びないと判断した瞬間、餌を与えるのをやめ、他の兄弟を優先する。そんなとき、人間が下手に介入するのはよくないのだとか。

 

先日、巣をはやく去りすぎた小鳥の赤ちゃんを見た。巣を出るタイミングを間違うと、赤ちゃんは生き延びることができない。

 

アーティストや作家にも言えることなのかもしれない。メンターシップはいわば、ひとりで飛べるまで、巣の中にいさせてもらえるシステムと言えるのかもしれない。

小鳥のように繊細な芸術家にとって、大事な最後のひとかけらのように思う。

 

Unauthorized copying of images strictly prohibited.