maimaiomaiのブログ

アイルランドと日本の狭間で 言葉を解き、紡ぎなおす者として

タテ社会に、さようなら

こちらにいると、日本で体に染みついていたタテ社会の心得のようなものがどうしても邪魔になる。邪魔になるどころか、失礼になることが多い。

そして、このタテの構造を取っ払ったとき、自分の真の姿が見えてくる。目上の人を敬うわけでも、年下の人を励ますのでもない。ただ人として接する、ということなので、自分が試されているような気がするのである。

ダブリン・フリンジ・フェスティバルが主宰するWeft Studioというグローバル・マジョリティのアーティストを集めたイニシアティブが1週間にわたり開催された。(グローバル・マジョリティは、白人目線のエスニック・マイノリティに代わって最近使われている言葉)黒人と白人の混血、血は完全にアジアだが話すのはポルトガル語や英語、ノンバイナリー、クイア、などなど、複雑なアイデンティティーを持つアーティストたちが集まった。

私自身も、アイデンティティーとはずいぶんと向き合ってきたつもりだが、彼らの体験談を聞いていると、知らず知らず人を差別する人間の残酷さを身に沁みて感じ、そしてその残酷さが、鏡のように跳ね返ってきた。

人それぞれに傷つく部分が違うので、多様なアイデンティティーを持つ人々が集う空間は、とても神経を使う。今まで当たり前に言っていたことが、誰かを傷つけうるからだ。

彼らは、自分が人種的な差別を受ければ、しっかりと組織のトップに訴える。私を含め、日本人は、「いやいや、そんなの大したことじゃない」、と謙遜して我慢することが多いが、考えてみると、若い世代に、「あんたたちも同じように耐えろ」、と言っているようなものなのかもしれない。そんな風に生きてきた自分を顧みる良い機会となった。

異国にきて、マイノリティーであることを体験して初めて知ることの多さ。バックグラウンドがまったく異なる人たちと子どものように創作し、語り、爆笑し、涙し、壁がおのずと溶けて消えた。肩書も、色眼鏡も捨て、ただの人として人と接する気持ちよさに浸った。ずっと一緒に過ごしていると、肌の色も、目の色も、発音も、「違い」と呼ぶもの全てが、見えなくなってくる。

移民というのは、数が少ない段階では、あまり差別されないように思う。移民危機が襲い、国が移民で溢れ始めたときに、差別ははじまる。最近、そんなことを想う。

先日、台風ベティーが通過した。風で折れたいくつもの木の枝が道端に落ちている。台風が去った翌日は、さっそく秋の香りがした。観測史上最も雨が多い七月であったため、夏はどこへ行ったのか、とあっけない気分だが、透き通った秋の空気は、どの国にいても心地よく肺に入ってくる。

今年は、アクシス・バリーマン劇場、アイリッシュ・ライターズ・センター、ダブリン・フリンジ・フェスティバルが主宰するイニシアティブにどっぷりと浸かる。

自分はこれだけの年数を確実に生きてきた、というだけで十分なのであって、何かを主張することも、証明することもなく、今年の残りも、たくさん学びたい。

Axis Ballymun / axis Assemble Artists

https://www.axisballymun.ie/assembleartists2023

 

Foundation Programme by Irish Writers Centre and Dublin Book Festival

https://irishwriterscentre.ie/announcing-the-2023-iwc-dbf-foundation-programme-participants/

 

Weft Studio by Dublin Fringe Festival

https://www.fringefest.com/news/announcing-weft-studio-artists-2023-2024