maimaiomaiのブログ

アイルランドと日本の狭間で 言葉を解き、紡ぎなおす者として

受け入れて、疑って

どんな芸術家も、孤独に耐え、誰も通ったことがない道を選び、

他の思想が世を支配する中、自分の思想を受け入れる。

自分自身の言葉を使って世を批判することが、小さすぎることだと決して思わないこと。

 

かつて、詩人ウィリアム・バトラー・イェーツがこんなことを言っていた。12月に上演する『ダブリンの演劇人』の舞台となる時代に、大活躍した人物。

 

詩人のシェイマス・ヒ―ニーが亡くなった日、ラグビーゲーリックフットボールか記憶が定かでないが、試合前に追悼の意を表した後、数分間拍手が鳴りやまなかったそうだ。スポーツの試合で詩人がここまで讃えられるのは、アイルランド特有の現象かもしれない。アイルランドを独立に導いた活動家たちの中にも、詩人や作家が多数いたという。

とある方から「何か面白いアイルランド戯曲はないか」と質問されたのは、去年のこと。その時出会った戯曲が、『ダブリンの演劇人 Dublin by Lamplight』だった。当時、英国離脱の直後で、戯曲の出版社のほとんどがロンドンを拠点にしていたため、アイルランド戯曲がアイルランドで購入できないという不思議な現象が起きた。仕方なしに中古を購入したところ、なぜかパリから届いた。パリは、お声がけいただいた方にゆかりのある土地。何か不思議なご縁を感じた。

 

https://www.youtube.com/watch?v=mOaJIDK1S_o

2017年版のトレーラー

 

『ダブリンの演劇人』の作家マイケル・ウェストと演出家のアニー・ライアンとお会いしたのは、今年の1月のこと。

 

長年アニーさんが培ってきた独自のフィジカル・スタイルの上に書かれたテキストだったので、日本語で上演することに対してどう思われるのか直接メールをしたところ、上演を心から喜んでくれた。マイケルさんは、「作品には旅をさせないとね」と言ってほほ笑んだ。人生には、自分でも触れたことがないような勇気が突然湧いてくることがある。普段は臆病なのに、なぜかその時は、無心で二人に会いに行った。

しかし、それからが大変だった。何せ、翻訳以前に、このベースとなっているフィジカル・スタイルを理解しなければならないので、何度かアニーさんが開催しているプロの俳優向けのWSを見学させていただいた。最近は、机上だけで戯曲が完成されることは少なく、ほとんどがワークショップという創作期間を経る。もしかすると、舞台上の身体を想像しなければならない戯曲翻訳というものが、これからどんどん増えていくのかもしれない。

それはそれは、外連味のある、エネルギッシュなスタイルだった。アニーさん自身も、髪をびしっと後ろに結い、ドラムをたたきながら、常に叫んでいる(役者を導く言葉であり、叱責しているのではない)。

終ったあと、「特に私は何もしないの。役者を導くだけ」とニコリと笑った。

しかし、何かを使い果たした姿を見ると、一方的に指示するよりも俳優に寄り添うほうがエネルギーを使うのかもしれないと思った。

アンサンブル芝居なので、リーダーを徹底的に排除する。普段リーダー気質の人は、流れに任せることを学び、普段主張しない人は、勇気を出して普段よりも少し足を一歩出してみる。そうやってグループが一つになっていく過程は、見ていて感動するものがあった。

アニーさんと日本側の演劇カンパニーOva9のメンバー、キャストさんをつなぎ、数回のリモート・ワークショップを経て、ついに稽古が本格的に始動した。

創作の不思議な循環を思う。過去の作家が、世代を超えて誰かを動かす。結果、その人は他者を巻き込み、観客の心を動かす。

同時に、私自身も、舞台作品創作の真っただ中。もうすぐ書いたものを、ある人に見せなければならず、一日中狂ったように書き続けている。

 

人の意見を受け入れ、それを認めつつ、しかし鵜呑みせずに少しは疑って、自分が本当に書きたいことに耳を傾け続けることの難しさ。

そんなときに、冒頭のイェーツの言葉は、とても私の心に優しく響いたのだった。

 

「ダブリンの演劇人」

https://www.ova9actress.com/

 

「橋の上のワルツ」

https://itij2022.com/?fbclid=IwAR1NWbHF9sBNy42zZ11lb6RPlfWdzt9BzIkcpEFDGexuDmgHQ_INXrOB7kI