クロウドリとコマドリが真夜中に急に歌いだすことがある。
都会の小鳥たちにたまに見受けられる現象なのだそうだが、そうやって動物たちも人間に似てきてしまうのだろうか。
しかし、このような夜想曲が鳴り響いた次の日の朝は、妙なことに、良い知らせが届くことが多い。
私の新しい詩が、またこちらの文芸誌に掲載されることになった。ひとつ、ふたつ、みっつと詩が取り上げられるたびに、誰かが、「書き続けていいよ」、と言ってくれているみたいで嬉しい。
最近は、ようやくこちらの文化、いや、「やり方」にも慣れてきた。こちらでは、「頑張った」ということがあまり評価されない。頑張るのは自分のためであって、人から評価されるためにすることではない、と改めて気づかされるのである。ただ、日本人の真面目さは決して悪いものではないので、ひとつの取柄として捉え、やはり真面目に取り組むのだが、それだけで真面目を相手に押し付けてしまうこともあり、なかなか塩梅が難しい。
年齢で判断されない社会も、とても気に入っている。応募条件に年齢制限がある場合も稀にあるが、こちらでは経歴書に年齢を書かなくてもいい。そもそも、アジア人女性は若く見られるので、私はどこへ行っても、良い年をして、小娘でいられる。最初は戸惑ったものの、ある意味、タイムスリップしたかのように、20代、30代を生きなおしているような気がして、得をした気分である。年上だからもっと知ってなくてはならないとか、しっかりしていなくてはならない、などと言ったことが、少なくとも演劇界では求められない。むしろ私は今、20代のアーティストたちに何かと助けられている。歳を重ねるとともに、知恵は深まってほしいが、何歳になっても、足元がおぼつかない新人のように、初々しく生きたいものである。
詩を書くようになってからというもの、日常の中にふと現れる隙間というか、穴のなかに吸い込まれることが多くなった。
いつだったか、夫と道端で立っていると、男の子が道の向こう側からぼーっとこちら側を見ていたことがあった。車が目の前をびゅんびゅん通り過ぎても、男の子の目は私たちにくぎ付けだった。私たちの背後に亡霊が見えているのだろうか、と思うほどだった。
すると、母親がぐいっと彼の手を引っ張ったのだった。
子供は、このように、隙間にある何かが見えているように思うのだが、大人になっても、この隙間の中に籠っていたいことがある。子どものまま大人になってしまったなぁ……と時々情けなく思うが、そんな自分も、詩が肯定してくれているように思える今日この頃なのだ。