「詩が完成することはない。途中で断念しただけのこと。」
書き溜めていた詩が少しずつこちらの文芸誌に取り上げられるようになったのだが、出版前にゲラをいただく段階で、「修正があれば、お申し付けください」と出版社からメールが来るとき、いつも目をそむけたくなる。というのは、毎回、自分の詩が「完成」なのかどうかは疑問で、たとえばその詩を数か月後、数年後に見たら、「なんて稚拙な……」と思うような気がして恐ろしいのである。
十年後、十数年後に読み返しても、「これは、あの時だからこそ書けた」、と思えるような作品が書けたらいいのだが。
こちらの劇団や演劇組織には、新作を読むReaderという立場の人たちがいる。それは、演出家、作家、ドラマツゥルグなど様々なのだが、戯曲を読むプロのこと。私自身読むのが非常に遅い人間なのだが、こちらに来てから、「読み上手」な方の多さに驚いている。劇団や組織にもよるけれど、戯曲が最終的に上演に至ることがなくても、Readerたちの議論を経て、ある程度の段階まで進めば、リテラリー(literary)マネージャーのような方から作品に対する綿密なフィードバックを貰うことができる。
先日、自分の書いている舞台作品のフィードバックに、『表現主義的』という言葉があった。演劇に何年も携わってきた割りには、演劇用語に疎い。表現主義というと、真っ先に「ムンクの叫び」を思い浮かべてしまい、一瞬、え?と思ってしまったのだが、20世紀初頭にドイツではじまった演劇運動だと知った。さらに調べると、確かに、自分の書きたいスタイルと似ていて、そうやって、人からいただくフィードバックは、自分にとって死角に当たる領域を見させていただいているようで、いつも興味深いのだ。
そんな私は人の作品に対するフィードバックが非常に苦手である。たまに集まる劇作家のグループでは、お互いの作品に対して感想を言い合うのだが、私ときたら興味のあるものに関しては永遠に語れるのに、興味のないものには一言も感想が出てこない。笑顔で無理やり絞り出したとしても、嘘丸出しなものだから、ぎこちなさだけが漂い、変な汗をかいて、おしまい。こちらの人たちのフィードバックのうまさに感心しながら、わが身を振り返る日々なのだ。
ある作家さんに、なんでそんなにフィードバックが上手いのか、と聞いたところ、「必死にフィードバック・ガイドラインを研究して、努力しているのよ!」、と返ってきた。なるほど、私は努力が足りないだけなんだな、と反省したのであった。
それにしても、こちらの組織にせよ劇団にせよ、この「努力」がすごい。男女アーティストの比率を平等にする努力、できるだけ黒人やグローバルマジョリティーのアーティストの作品を取り入れようとする努力、トランスジェンダーの人たちを受け入れようとする努力。
変化に対する抵抗が、少ないように思う。とても前向きで、学ぶことが多い。
ただ頑なであることと、柔軟でありながらこだわりを持つことは、似ているようで違う。
劇作のコンペティションでも、通った作品は選考後、上演に至るまでに何回かリライトが許されるのだと、とある作家さんが話していた。作家が最初から最後まで一人で書ききるスタイルは古いとされ、書く過程には、ドラマツゥルグや演出家、経験豊富なメンターなど、多くのクリエーターを経る。
しかし、このやり方も、度が過ぎるとよろしくない。メンターが助言するときも、いわゆる「経験」が邪魔になることが多々ある。つっこみどころのない作品が仕上がる確率が高くなるような気もしないでもない。まったく隙のない作品が良いかというと、そうでもないような気もしている。
しかし、外からいろんな突っこみが入った時に、自分の軸をしっかり持ってさえいれば、作品の核を確認する良い機会になる。蜃気楼のように、表現者としての核のようなものがぼんやりと見えてくる。
完成とはなんだろうか。過去に名を馳せた作家たちは、いつ、「完成した」と思ったのだろうか。あるいは、死の床につくまで、「ああすればよかった、こうすればよかった」と、夢にうなされ続けたのだろうか。
そんなことを、思う毎日である。
詩の掲載
Banshee Issue 17
https://bansheepress.org/shop/p/issue-17-springsummer-2024
The Stony Thursday Book
And more coming soon.
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