maimaiomaiのブログ

アイルランドと日本の狭間で 言葉を解き、紡ぎなおす者として

言葉を尽くし、言葉をなくす

 

Irish Writers’ Centreのライティング・グループに参加したときのこと。

こちらには、書く人たちによる任意の集まりが、いくつもある。そうやって、お互いに書いたものをシェアし、切磋琢磨する。

このグループは国際色豊かで、ウクライナベラルーシ、ロシア出身の女性がいた。

ある日、ロシア出身の若い女性が、ウクライナ出身の女性にどこ出身かとメンバーに聞かれ、少し戸惑いながらも小さな声で、「ロシアから来ました」と答えた。

一瞬、場がしんとしたのだが、ベラルーシ出身の女性がすぐに手を差し伸べ、

「私は、ベラルーシ出身で、私もロシア語を話すのよ。一緒ね」

と言った。私は、こういうさりげない気づかいができる女性が大好きだ。人生の痛みを知っているからこそ自然に湧き出る優しさ。

その人の書く文章は、飾らない、心のある文章だった。

どこにも力みがない。無駄なものを、どこかに脱ぎ捨ててきたかのように、ただポンと存在する。こういう人は、一緒にいて心地がいい。

先日から、ゴミ拾いにハマってしまった私は、さっそく近所の方からゴミ拾い道具をいただき、相方と一緒にゴミ拾いの旅に繰り出した。

ポイ捨ての多さは相変わらずで、1時間ちょっとで、大のゴミ袋3個分一杯になった。

ゴミ拾いをしていると、通りすがりの見知らぬ人が、静かに笑顔を向けてくれたり、「Fair play to ya!」(ありがとさん!)などと声をかけてくれるのが心地いい。

あるリュックを背負った男の子が、私たちがゴミ拾いをするのを不思議そうにじっと見ていた。きっと学校帰りなのだろう。私たちが何のためにゴミを拾っているのか、私たちが何者なのか、理解ができないようだった。とにかく、不思議そうな目で私たちを見ていた。私たちを通り過ぎた後も、振り返って、私をじっと見つめた。

彼が何を見たのかは分からないが、無言の会話を交わしたような気がした。

それは、とても心地よい会話だった。

あまり、自分を誇らしく思ったことがない。

しかし、ゴミ拾いをしていると、少しでも役に立てているように思えて、少しだけ、自分のことが好きになれる。

春が近い。毎年必ず来る春なのに、アイルランドの長い冬を経験すると、もう春なんて来ないのではないかと疑ってしまう。

しかし、確実に春は来る。去年植えた水仙が、ひょっこりと頭を出す。コマドリたちが、恋歌を交わす。

そんな春の気配を感じた日、

去年描いた絵を、チャリティーショップで購入した3€の額縁に入れた。

端が少し欠けているのがいい。

執筆しながら壁にぶち当たると、絵を描いてみる。

言葉を尽くし、言葉をなくす。

無言の中は、時に豊かである。

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怒りは慈悲に

「怒りは慈悲に」、という言葉を聞いたことがある。

思えば、私の知り合いで慈善活動に従事している人は、怒りを抱えた人が多いように思う。

その怒りの裏側には、正義感なり、弱者をかばう想いなどが潜んでいるのかもしれない。

ダブリンに移住してからというもの、ダブリンのポイ捨ての多さにひそかに怒りを抱えていた。ダブリン中のゴミを掃除機で吸い取る光景を何度妄想したか分からない。路上やカナル沿いに落ちているゴミを見ては、怒りが日に日に蓄積していった。

「そんなに怒るのなら、自分で拾えばいいじゃないか」、と誰もが思いつくような答えにたどり着いたのは、ごく最近のこと。新年も明けたことだし、さっそく地元ボランティア・グループのゴミ拾い活動に参加してきた。

ゴミ拾い用掴み棒にひそかに憧れを抱いていた私は、それを手にするやいなや、水を得た魚のように、ゴミを拾い始めた。その気持ちよさたるや。まるでUFOキャッチャーを自分で操っているかのよう。

「気持ちがいい!」と心が叫ぶのが聞こえた。ダブリンを掃除することこそが、私の使命に思えたほどだった。こんなにも清々しい気分は、久しぶりだった。

こうなったらダブリン中のゴミを拾ってやる、と使命感に燃えるのだった。

終わった後は、みんなで集まってお茶を飲みながら談笑する。お年寄りが主だが、面白いことに、男性が多い。ダブリンのポイ捨ての多さは半端ないが、その分、ゴミ拾いや環境保護を目的としたボランティア・グループも多い。アイルランドは、こういう両極端なところが面白い。

両極端と言えば、最近、アイルランド人俳優が多数出演するThe Banshees of Inisherinが映画賞を総なめにして話題になっている。アイルランド人の多くが誇りに思っているかと思いきや、批判的な声も多い。まさに賛否両論で、ぱっかりと意見が分かれるのだ。

個人的に、リアリズムを追求した映画ではなかったように思うけれど、映画の設定と同じような境遇で生活する当事者にとっては、細部やリアリティが気になった様子。よくアイルランドとセットにされるブラックユーモアだが、この映画はまったく笑えないと一蹴し、外から「アイリッシュらしさ」を押し付けられているようで、心外だという人もいる。

どこかの新聞の記事に、「アイルランド映画」と捉えるのではなく、単に「マーティン・マクドナーの映画」、でいいのでは、というような意見が書かれていたが、私もそう思う。そもそも、作品を国と繋げること自体、少し無理が出てきているのかもしれない。

 

人の複雑なこころ、根深い歴史を感じざるを得ない。

夕食をとっていると、ラジオからシャンノースの音楽が流れる。こういったアイルランドの伝統音楽を耳にすることができるのも、復活させるために必死に戦った人たちがいたから。

 

怒りの出どころは様々である。思いもよらないところから湧いてくる。

意外と、この怒りの裏に、前向きな要素が隠されているように思う。

できれば良いことに、変換させていきたい。

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いつか辿り着く場所

実にせわしない年末だった。

夫がゴールウェイでの公演中に肺炎になったうえ、顔面から転倒。フェイスタイムで夫の痣だらけの顔を見たときはぞっとした。

時間外の医者もつかまらず、結局公演が終ってからダブリンの病院の救急に駆け込んだのだが、なんと15時間以上も混み合った廊下で待たされた。その後は、とても的確かつ迅速に対応していただき、医療費もかからなかったので文句は言えないが、まさに年末のひっ迫した医療現場を目の当たりにしたのだった。その約1週間後、コロナの状況が悪化して、さらに医療現場はピークを迎えたらしいが、ピークの直前に滑り込んだうえ、個室にも恵まれた夫は、本当にラッキーであった。

不器用を絵に描いたような人だが、どこか運に恵まれているところがある。

洗濯物や夫の大好きな桃やらを届けるため、勝手に救急病棟を出入りしていた私だが、看護師さんたちの忙しそうな背中が、波のように次から次へと私を追い越していった。

いま、入院患者の7割がコロナに感染しているという。

夫が個室に移動して至れり尽くせりの待遇を受け、面会禁止を告げられてから、タイミングよく私もダウンした。物凄い倦怠感と酷い咳に襲われ、その2日間は泥のように眠った。

身体そのものは丈夫なのだが、ストレスにもっぱら弱い。ストレスがかかると一気に免疫力が下がる。こればかりは何歳になっても変わらない。

そんなこんなで夫婦ふたりして年末にしっかりデトックスをし、地味ながら清々しい年始を迎えた。

アイルランドへ移住してから、年越しそばやおせちなどは食材が揃わないがゆえにとっくに手放しているが、どうも大掃除という習慣はアイルランドへ来てからも捨てられない。

心身ともに疲れ切っていたが、とにかく新年を迎える前に、タイルのカビを落とし、溜まりにたまった埃を払いまくった。

とある演劇批評家さんが、2022年の演劇作品ベスト5に、去年の12月に上演した『ダブリンの演劇人』(Ova9主催)を選んでくださったそう。名の知れた団体に並んで、私たちのような自主公演の作品を取り上げてくださったことに、心から感動した。

レミーのおいしいレストラン』という映画をふと思い出す。最後のシーンに、レストラン評論家アントン・イーゴによる、とても印象深いスピーチがあった。

「芸術家が日々負うリスクに比べればリスクを負うことが少ない批評家でも、本当にリスクを負わなければならない時がある、それは、新しいものを擁護するときだ」、というような台詞だったと思う。夫婦そろって大ファンの個性派俳優ピーター・オトゥールが声を担当しているのだが、とても印象深くて、ずっと心に残っていた。

10年以上も前に響いたその言葉が時空を超えて、優しくこだました。

せわしない年末から一転して、年始は読書にふけったり、執筆しながら、ゆっくりと過ごさせていただいている。今年初めて月が満ちた日に、フランス人作家アニー・エルノー氏のA Man’s Placeを読了。2年前に彼女の本を初めて手にしたのだが、自伝的エッセーのようで、しっかりと文学。憧れの作家さんだ。

これはあくまでも私の勘なのだが、今年は理想を追いかけながら、水面下で地味に努力し続ける年になるような気がしている。

しかし、自分が求めるものがはっきりとしてきた昨今は、逆に、そんな静けさ、地味さが心地よくもある。

ここを歩いていれば、いつかたどり着く—

そんな不思議な安心感に包まれながら。

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ショー・マスト・ゴー・オン

 

何かが終るとき、必ず私は「思い出を納める」、ということをする。

それは、どうやってするのかというと、私の場合、気持ちを言葉に落とす、のである。そうやって、次へ進むために、少しでも終わることへの悲しみを和らげる。

いわば、ささやかな儀式のようなものだ。

「ダブリンの演劇人」が無事に終演した。今年の1月にオリジナルの演出家と劇作家とアベイ座のロビーで会って以来、本当に手探りだったが、アイルランドから来日して公演をご覧になったお二人もたいそう喜んでくださって、涙、涙の初日を迎えた。この1年間、心配事が尽きなかったが、キャストとお二人の涙で、そんな記憶も跡形もなく洗い流されていくのだから人生は不思議だ。

思えば、コロナ禍に入ってからすぐの頃、Ova9メンバーの女優さんと「今までの演劇が物足りなくなったね」、という話をしたのを覚えている。無性にぶっ飛びたい衝動に駆られて、そんなときに出会った戯曲が「ダブリンの演劇人」だった。

型破りで、アイルランドの歴史的背景が複雑に絡む作品なだけに(しかも文学作品からの引用やパロディが満載)、幕が開くまで、観客の反応がまったく予想できなかったが、予想以上の反響だった。当たり前のことだが、観客が入って初めて作品が完成したように思えた。身を削って演じるベテラン女優たちが、最高にかっこよかった。作品のリズムに寄り添う和田啓さんの演奏は、贅沢の極みだった。公演を重ねるなか、悲劇が突出したり、喜劇が突出したりを繰り返した後、千秋楽は、悲劇と喜劇が絶妙な割合で混ざり合った。

「この作品は日本では理解されない」という言葉をよく聞くが、やってみないと分からないのではないかといつも思う。情熱や確信のようなものは必要だけれど、それが自分の中に確実にあるのならば、心に従ってみるのもいいと思う。なぜ、自分が突き動かされたのか、自分ではわからなくても、キャストや演出家や観客が教えてくれることがあるからだ。

コトバの訳以上に、作品の魂のようなものを守るためにはどうすればいいかということを、必死に考えた作品だった。メンバー一丸となってそれができたことを、心から嬉しく思う。二つの文化がぶつかり合う翻訳劇にとって、この過程はとても繊細だ。

弾丸帰国だったが、かけがえのない時間を過ごさせていただいた。3年ぶりの日本は、少し見覚えのあるストレンジャー(見知らぬ人)のようだった。懐かしい!という強い感情は沸き起こらず、私と土地の間に、最後まで薄いフィルムが消えなかった。自分と日本との深いつながりと向き合う間もないまま日本をあとにした。うまくバランスができる人もいるのだろうが、海外で頑張っていくという緊張感の中で、どうしてもそこには触れたくないという自分もいる。

公演の合間に、舞踏のレッスンを受けさせていただいた。これは、私自身がアイルランドで今執筆している作品に関わることなのだが、言葉と葛藤しながら、どうしても、身体に戻る必要性を感じた。月並みな言い方だが、海外にいると、自分のアイデンティティーと向き合わざるを得ない。根無し草の私は、アイデンティティーの在り処を、自分の身体に求めるしかないのである。ただ、「歩く」ということだけに特化してレッスンをしていただいたのだが、今まで悶々としていたことに光が当たって、また書きたいという意欲が沸いて来た。

 

とにかく、すべてに感謝である。この体験を葬るのではなく、いったん納めて、次へ。

 

「そうだ!私たちは演劇人なのだ!ショー・マスト・ゴー・オン!!」

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降伏は幸福なり

 

ベルファストクイーンズ大学で開催された戯曲翻訳フェスにお呼ばれした。

 

翻訳した戯曲を日本語で読んでくれ、と言うのである。

基本的に、私は自分のことを信じていないので、こういうお声がけをいただくと、まず鎧を着て逃げの体制に入るのだが、最近は無理やりにでもYESと言うようにしている。最初は滝の中を潜るような恐怖を覚えても、潜った後は、「嗚呼、怖かった。でも、まだ生きてる、万歳」、となる。「人生に必要なのは、勇気と想像力、そして少しのお金」。

私は今まで、臆病すぎて、この「一歩の勇気」を怠ってきた。この年になって、ようやく踏み出せるようになったのだが、もう少し若い時に自分を信じて、どんどん踏み出していればよかったなと今更ながら思う。

フェスは、大変有意義な時間だった。大好きな劇作家ブライアン・フリールの名前がついたクイーンズ大学の劇場で開催された。スコットランドのトラヴァース劇場の小屋付きリテラリー・マネージャーとして数々の作家を輩出してきたキャサリン氏、フランスとアイルランドを行き来しながら活躍する女優さん、クララ・シンプソンさんなど、本当に素敵な方たちと一緒の舞台に立たせていただいた。

 

クララ・シンプソンさんは、ベケットNot Iを英語とフランス語で披露した。ここまでしっかりと二言語でベケット作品を披露できる人は、世界中探しても、ほんの一握りだと思う。英語からフランス語に移行していく瞬間は、もう圧巻の一言だった。言語が変われば、身体も、口の形も変わる。

フェスの名も、Words in the Airと言って、舞台空間に放たれるコトバの特殊性を祝うものだった。

劇場の客席の最前列に座り、他の方のパフォーマンスを見ながら、自分の番が来るのを待っていた。

思えばまだ舞台に立っていた頃——例えば、5年前の自分ならば、出番を待ちながら、自分の読む箇所にばかり集中していたに違いない。直前まで身体を震わせて、楽屋で自分の台詞またはステップを練習していたかもしれない。しかし、今回は、直前まで、他の方のパフォーマンスに見入っていた。見入りながら、いつもは自分の身体を蝕んでいく緊張がすっと解けていく瞬間があった。そして、前の方のパフォーマンスを受け継ぐように舞台に上がると、練習していた時は噛みまくっていたのに、不思議とほぼ噛まずにスラスラと流れるように読むことができた。

それは、出演した女性たちの間で、何か不思議なSisterhoodがあったからかもしれない。お互いにしっかりと認め合う、心地いい空気が漂っていた。なんとも、後味のいい経験だった。

爪先が向かいたい場所へまっすぐ向いて、一歩一歩進むごとに、緊張を受け入れていく。なんて言われようと、どうなろうと、これが今の私なんだから——そんなことをつぶやいていると、心地のいい「降伏」感に包まれていった。そうか、降伏は、幸福なのかもしれない。これから、どんどん降伏していこう。

 

怒涛の11月だった。いくつもの滝を潜り抜けて、僧の修行を終えたような気分。

逃げそうになるとき、いつもかみしめるのは、

とある方からいただいた言葉。

「あなたの心が振り子のように振れるのは、

それだけクリエイティブなことをしている証拠」

 

嗚呼、怖かった。でも、まだ生きてる、万歳!

 

  • 「ダブリンの演劇人」

:マイケル・ウェスト in collaboration with The Corn Exchange

12月6日-12月11日 新宿シアターブラッツ

https://www.ova9actress.com/next-stage

 

  • 「橋の上のワルツ」

作:ソニア・ケリー

12月21日―25日 オメガ東京

https://itij2022.com/?fbclid=IwAR1j1VIiSxHn2_HO7lZUlgUr9-ErEL4W5AG4Lg9217p38ZzmXNP0tcnG96c

 

受け入れて、疑って

どんな芸術家も、孤独に耐え、誰も通ったことがない道を選び、

他の思想が世を支配する中、自分の思想を受け入れる。

自分自身の言葉を使って世を批判することが、小さすぎることだと決して思わないこと。

 

かつて、詩人ウィリアム・バトラー・イェーツがこんなことを言っていた。12月に上演する『ダブリンの演劇人』の舞台となる時代に、大活躍した人物。

 

詩人のシェイマス・ヒ―ニーが亡くなった日、ラグビーゲーリックフットボールか記憶が定かでないが、試合前に追悼の意を表した後、数分間拍手が鳴りやまなかったそうだ。スポーツの試合で詩人がここまで讃えられるのは、アイルランド特有の現象かもしれない。アイルランドを独立に導いた活動家たちの中にも、詩人や作家が多数いたという。

とある方から「何か面白いアイルランド戯曲はないか」と質問されたのは、去年のこと。その時出会った戯曲が、『ダブリンの演劇人 Dublin by Lamplight』だった。当時、英国離脱の直後で、戯曲の出版社のほとんどがロンドンを拠点にしていたため、アイルランド戯曲がアイルランドで購入できないという不思議な現象が起きた。仕方なしに中古を購入したところ、なぜかパリから届いた。パリは、お声がけいただいた方にゆかりのある土地。何か不思議なご縁を感じた。

 

https://www.youtube.com/watch?v=mOaJIDK1S_o

2017年版のトレーラー

 

『ダブリンの演劇人』の作家マイケル・ウェストと演出家のアニー・ライアンとお会いしたのは、今年の1月のこと。

 

長年アニーさんが培ってきた独自のフィジカル・スタイルの上に書かれたテキストだったので、日本語で上演することに対してどう思われるのか直接メールをしたところ、上演を心から喜んでくれた。マイケルさんは、「作品には旅をさせないとね」と言ってほほ笑んだ。人生には、自分でも触れたことがないような勇気が突然湧いてくることがある。普段は臆病なのに、なぜかその時は、無心で二人に会いに行った。

しかし、それからが大変だった。何せ、翻訳以前に、このベースとなっているフィジカル・スタイルを理解しなければならないので、何度かアニーさんが開催しているプロの俳優向けのWSを見学させていただいた。最近は、机上だけで戯曲が完成されることは少なく、ほとんどがワークショップという創作期間を経る。もしかすると、舞台上の身体を想像しなければならない戯曲翻訳というものが、これからどんどん増えていくのかもしれない。

それはそれは、外連味のある、エネルギッシュなスタイルだった。アニーさん自身も、髪をびしっと後ろに結い、ドラムをたたきながら、常に叫んでいる(役者を導く言葉であり、叱責しているのではない)。

終ったあと、「特に私は何もしないの。役者を導くだけ」とニコリと笑った。

しかし、何かを使い果たした姿を見ると、一方的に指示するよりも俳優に寄り添うほうがエネルギーを使うのかもしれないと思った。

アンサンブル芝居なので、リーダーを徹底的に排除する。普段リーダー気質の人は、流れに任せることを学び、普段主張しない人は、勇気を出して普段よりも少し足を一歩出してみる。そうやってグループが一つになっていく過程は、見ていて感動するものがあった。

アニーさんと日本側の演劇カンパニーOva9のメンバー、キャストさんをつなぎ、数回のリモート・ワークショップを経て、ついに稽古が本格的に始動した。

創作の不思議な循環を思う。過去の作家が、世代を超えて誰かを動かす。結果、その人は他者を巻き込み、観客の心を動かす。

同時に、私自身も、舞台作品創作の真っただ中。もうすぐ書いたものを、ある人に見せなければならず、一日中狂ったように書き続けている。

 

人の意見を受け入れ、それを認めつつ、しかし鵜呑みせずに少しは疑って、自分が本当に書きたいことに耳を傾け続けることの難しさ。

そんなときに、冒頭のイェーツの言葉は、とても私の心に優しく響いたのだった。

 

「ダブリンの演劇人」

https://www.ova9actress.com/

 

「橋の上のワルツ」

https://itij2022.com/?fbclid=IwAR1NWbHF9sBNy42zZ11lb6RPlfWdzt9BzIkcpEFDGexuDmgHQ_INXrOB7kI

不完全

その昔、人の字で人を評価する癖があった。

手書きで手紙を書くことが少なくなってからは、そんな癖も、癖ではなくなりつつある。仕事柄、人を分析する習慣はけっして悪いことではないと思うのだが、アイルランドへ来てから、人の部屋の汚さや綺麗さ、人の字で人を評価すること自体、恥ずかしいと思うようになった。

そもそも、私は夫の字が読めない。本人も、自分で自分の字が読めないとよく嘆いている。私は夫に出会ってから、字の綺麗さで人を判断する癖を丸ごと捨てたのであった。

 

先日、ディングルへ旅行した時、地元のとある女性が、わざわざ休みの日に車でしか行けない村の見どころをドライブしてくれた。けっして悠々自適な生活を送っているわけではないのに、頭が下がる思いだった。彼女は運転しながら、あそこは~家、あそこの家の人は~と指さしながら得意げに説明する。村の住人全員と顔見知りのようだった。

年がら年中吹き荒れる西風は、しつこい蚊のように耳にまとわりつく。石造りの壁によりかかると、一瞬だけ風の音が遠くなって安堵した。髪の毛がくちゃくちゃになりながら、足腰を使い、風に抗ってひたすら前を向いて崖の上を歩いていると、地元の人たちの逞しさ、腹に落ちた声、キビキビとした身体が妙に腑に落ちた。

最近見たマーティン・マクドナーの話題作「イニシェリン島の精霊(The Banshees of Inisherin )」もこのような環境が舞台だった。毎日同じ人と顔を合わせ、毎晩同じパブで飲み語らい、真新しい情報には魚のように食いつき、噂なんぞ一日で一気に村中を駆け巡る。あの、一瞬も止まない風。あの村の閉そく感。村の閉そく感が産みだす悲劇を描いた作品が昔からとても好きなのだが、この土地からそんな物語が沸いてくるかのようだった。

村を案内してくれた彼女は、片づけができない人だった。

 

しかし、世話好きな彼女には、私には皆無とも思える、おっきなハートがあった。それは、彼女だけではない。こちらの人に多くみられる傾向である。戦争がはじまってから、ウクライナ人の戦争難民を家に受け入れる人の多さに驚いている。近所の一人暮らしの女性も、自分の部屋をウクライナ人女性に貸し出している。先日ラジオで、難民に家の一室を貸し出して、里帰りした息子の部屋がなくなって、息子は今ソファーで寝ているわ、とゲラゲラ笑いながら話す女性がいた。

しかし、一方で、住宅危機が深刻化し、アイルランド市民のホームレスの数が増えているのも事実。一筋縄ではいかない問題ではある。

 

境界線を越えたときに気付くことの多さ。境界線は、豊かで、しんとした深い井戸のような場所。居心地のいい場所に座り込むのではなく、境界線を跨いで、後ろを振り返りながら、自分の小ささに思わず苦笑いする。その繰り返し。

 

視覚ばかりに囚われて、見た目の完璧さを気にして、心を置いてけぼりにしていないか。常にバックミラーを確認しながら前に進みたい。

不完全さを受け入れつつ、周りに助けられながら自身の執筆含め、創作を淡々と続けている。

12月に、翻訳した作品二本が上演される。

 

『ダブリンの演劇人』は、演劇を讃えたいという一つの想いから生まれた演劇賛歌。アイルランドの各主要紙で5つ星を獲得した話題作。コメディア・デラルテとストーリーシアターを融合させた、外連味のある作品だ。和田啓さんのパーカッションとパワフルな女優たちが出会う。今こそ、高らかに演劇を讃えてみたい。

 

『橋の上のワルツ』は、バスの運転手、男、女、三役の台詞が、時には激しく、時には優しく絡み合い、詩的なワルツに展開していく「物語り」。出自の異なる三人の俳優たちの素敵なトライアングル。英国作家組合賞Best Playにノミネートされた作品でもある。能力主義に翻弄される世の中で、ただただ生活のために、家族のために、粛々と仕事をする運転手の姿が心に沁みる。

 

是非。

「ダブリンの演劇人」

:マイケル・ウェスト in collaboration with The Corn Exchange

12月6日-12月11日 新宿シアターブラッツ

https://www.ova9actress.com/next-stage

 

「橋の上のワルツ」

作:ソニア・ケリー

12月21日―25日 オメガ東京

(レディ・グレゴリーの短編作品と二本立て)

https://itij2022.com/?fbclid=IwAR1j1VIiSxHn2_HO7lZUlgUr9-ErEL4W5AG4Lg9217p38ZzmXNP0tcnG96c