For the Birds

アイルランドで詩を書く人のブログ

節度はわきまえない

 

「節度は危険なもの。見せかけでしかない。

節度をわきまえる人は、壁にぶち当たった途端、すぐに節度を失う。

ストリッパーが身にまとう布切れのごとく、即座に剥がれ落ちるもの。

それよりも私は謙虚でありたい。謙虚さは内から湧き出るもの」

マヤ・アンジェロウ

(やや意訳)

抜きんでよう抜きんでようと力んだ人ではなく、真剣に自分は何者なのかということを考え抜いた末に、ぶっ飛んでしまった人はいいなと思う。

先日、トリニティ大学と提携している国立の演劇学校Lir Academyの卒業公演を観に行った。以前お世話になった演出家のアニー・ライアン氏が演出・デバイジングを担っていたのだが、学生の俳優陣が水から出たての威勢のいい魚のようにピチピチしていて、心から楽しめた。

良い意味で節度をわきまえない、最高にぶっ飛んだ演出。こうでしかいられない彼女が大好きだったりする。

そういえば、最近アイルランド国立劇場アベイ座でエリザベス・クッティ作『The Sugar Wife』を観劇したのだが、素晴らしい戯曲だった。19世紀半ば、ダブリンでお茶と砂糖の商売をするクエーカー教徒の夫婦を中心に展開される。帝国主義による搾取、人間の欲望、偽善などを描きながら、慈善活動の是非を問う。題名にもあるSugar(砂糖)の甘味が、人間の欲や女性のメタファーとして劇のところどころで使われていたのが秀逸だった。

あらゆる台詞が、世界各国で起こっている紛争や分断と被る。演劇は世を映し出す鏡、という言葉がぴったりな作品だった。

三か月続いた詩専門の出版社Dedalus Pressによるメンタリング・プログラムも無事に終わった。メンターの詩人さんは、とても厳しく、優しく導いてくださった。違う文化からきた人間にアドバイスをするのは容易いことではない。知らず知らず、自分の文化を上から押し付けてしまう恐れがある。しかし、彼女はそこも気を付けながら、私がどういう個性を持った詩人なのかを、客観的に、プロの目線からしっかりと提示してくださった。アイルランドの詩とは少し異なる私のシュールな世界を受け止めてくれて、そこは誰に何を言われても失ってしまわないように、とポンと背中を押してくださったのだ。

私のような心の揺れ幅が激しい人間にとって、こういった存在は有難いのである。

おかげ様で、自分の世界が爆発し、良い詩が沢山生まれた。

どうしても、人の評価を気にしたり、トレンドに流されてしまって、まったく好きではないものを、いいね、などと口がすべってしまったり、書きたくもないことを書いてしまったりする。

そうやって時には人の顔を伺いながら、流れに任せながら、節度をわきまえながら、こうでなくては存在できない自分というものを、何度も、何度も、振り返りたいものである。

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小鳥の手は羽である

アイルランドの劇場では、スタンディングオーベーションが起こる頻度が高い。そんなに良かっただろうか…と首をかしげてしまうような舞台でも、けっこうな確率でスタンディングが起こる。先日ダブリンのゲート劇場で見た作品でも、案の定、観客はカーテンコールでワラワラと立ち上がった。そんなとき、隣に座っていた夫をふと見ると、立ち上がらずに一生懸命拍手をしている。そして、「(カーテンコールは)最後の役者が舞台を去るまで拍手を絶やしてはいけない。立ち上がるよりも、大事なことだ」と真剣に語る。確かに、熱心に立ち上がった割りには、役者陣が完全に去るのを待たずに拍手が消えてしまうこともあって、最後に舞台を去る役者にとったら、さみしい話だ。

何げない一言に、その人の「ひととなり」が出る。そういう夫は、なかなか良い人だな、と思うのである。一方、私自身は普段どんな言葉を無意識にこぼしているのだろうかと、こんな時にドキリとする。

5月6月は、赤ちゃん鳥たちに囲まれて、最も幸せな季節である。嬉しいことに、毎年、アオガラやコマドリなどが、私たちのお庭に赤ちゃんをひっきりなしに連れてきてくれる。巣を出たての赤ちゃんは大きな声でお母さんやお父さんを呼び続ける。小さな体では抱えきれないほど大きな声で叫ぶものだから、最後は嗚咽になるほど。そういえば私も小さい頃、スーパーで迷子になったとき、あんな声を出して泣いてたっけなと思い出がよみがえる。

少し大きくなると、親を呼んでも呼んでも来なくなることが多くなってくる。赤ちゃん鳥はそれでもめげずに呼び続けるのだが、やがて力も尽き、諦めてしんとなる。

すると、親の留守を楽しむかのように、洗濯干し用の紐にブラブラとぶら下がって足を鍛えたり、自分で触ったことのない餌入れをくちばしでつっついてみたりする。「自由」という言葉が頭をよぎっているかのよう。それを眺めている私は、そういえば彼らの「手」は「羽」なのだなと気付いて、ひとりで感動するのである。

最近は、Dedalus Pressというアイルランドの詩専門出版社からいただいた奨学金で、オーストリアに住むアイルランド人の詩人のメンターと共に、ZOOMで話し合いながら、詩を磨き続ける日々。繊細で品のある詩を書く方で、とても相性が良い。どういう理由か分からないが、気が付けば、数十篇以上もの詩が溜まっていた。まだまだ深めて磨かなければならないが、いつの間にか溜まった詩を眺めては、不思議に思う。

そういうわけで、最近は劇場の外でも感動で溢れている。

スタンディングオーベーションというよりは、もう少し静かな拍手を送りたくなるようなささやかな感動なのである。

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詩の出版

The Stony Thursday Book BansheeChannelRagaire 等。

Dedalus Press Mentoring Program Poet 2024

作品は、いつ「完成」するのか

「詩が完成することはない。途中で断念しただけのこと。」

ポール・ヴァレリー

 

書き溜めていた詩が少しずつこちらの文芸誌に取り上げられるようになったのだが、出版前にゲラをいただく段階で、「修正があれば、お申し付けください」と出版社からメールが来るとき、いつも目をそむけたくなる。というのは、毎回、自分の詩が「完成」なのかどうかは疑問で、たとえばその詩を数か月後、数年後に見たら、「なんて稚拙な……」と思うような気がして恐ろしいのである。

十年後、十数年後に読み返しても、「これは、あの時だからこそ書けた」、と思えるような作品が書けたらいいのだが。

こちらの劇団や演劇組織には、新作を読むReaderという立場の人たちがいる。それは、演出家、作家、ドラマツゥルグなど様々なのだが、戯曲を読むプロのこと。私自身読むのが非常に遅い人間なのだが、こちらに来てから、「読み上手」な方の多さに驚いている。劇団や組織にもよるけれど、戯曲が最終的に上演に至ることがなくても、Readerたちの議論を経て、ある程度の段階まで進めば、リテラリー(literary)マネージャーのような方から作品に対する綿密なフィードバックを貰うことができる。

先日、自分の書いている舞台作品のフィードバックに、『表現主義的』という言葉があった。演劇に何年も携わってきた割りには、演劇用語に疎い。表現主義というと、真っ先に「ムンクの叫び」を思い浮かべてしまい、一瞬、え?と思ってしまったのだが、20世紀初頭にドイツではじまった演劇運動だと知った。さらに調べると、確かに、自分の書きたいスタイルと似ていて、そうやって、人からいただくフィードバックは、自分にとって死角に当たる領域を見させていただいているようで、いつも興味深いのだ。

そんな私は人の作品に対するフィードバックが非常に苦手である。たまに集まる劇作家のグループでは、お互いの作品に対して感想を言い合うのだが、私ときたら興味のあるものに関しては永遠に語れるのに、興味のないものには一言も感想が出てこない。笑顔で無理やり絞り出したとしても、嘘丸出しなものだから、ぎこちなさだけが漂い、変な汗をかいて、おしまい。こちらの人たちのフィードバックのうまさに感心しながら、わが身を振り返る日々なのだ。

ある作家さんに、なんでそんなにフィードバックが上手いのか、と聞いたところ、「必死にフィードバック・ガイドラインを研究して、努力しているのよ!」、と返ってきた。なるほど、私は努力が足りないだけなんだな、と反省したのであった。

それにしても、こちらの組織にせよ劇団にせよ、この「努力」がすごい。男女アーティストの比率を平等にする努力、できるだけ黒人やグローバルマジョリティーのアーティストの作品を取り入れようとする努力、トランスジェンダーの人たちを受け入れようとする努力。

変化に対する抵抗が、少ないように思う。とても前向きで、学ぶことが多い。

ただ頑なであることと、柔軟でありながらこだわりを持つことは、似ているようで違う。

劇作のコンペティションでも、通った作品は選考後、上演に至るまでに何回かリライトが許されるのだと、とある作家さんが話していた。作家が最初から最後まで一人で書ききるスタイルは古いとされ、書く過程には、ドラマツゥルグや演出家、経験豊富なメンターなど、多くのクリエーターを経る。

しかし、このやり方も、度が過ぎるとよろしくない。メンターが助言するときも、いわゆる「経験」が邪魔になることが多々ある。つっこみどころのない作品が仕上がる確率が高くなるような気もしないでもない。まったく隙のない作品が良いかというと、そうでもないような気もしている。

しかし、外からいろんな突っこみが入った時に、自分の軸をしっかり持ってさえいれば、作品の核を確認する良い機会になる。蜃気楼のように、表現者としての核のようなものがぼんやりと見えてくる。

完成とはなんだろうか。過去に名を馳せた作家たちは、いつ、「完成した」と思ったのだろうか。あるいは、死の床につくまで、「ああすればよかった、こうすればよかった」と、夢にうなされ続けたのだろうか。

そんなことを、思う毎日である。

詩の掲載

Banshee Issue 17

https://bansheepress.org/shop/p/issue-17-springsummer-2024

 

The Stony Thursday Book

https://www.limerick.ie/council/newsroom/news/the-stony-thursday-books-45th-edition-is-poetry-in-motion-at-limerick-launch

And more coming soon.

 

Voicebank Dublin

https://l.facebook.com/l.php?u=https%3A%2F%2Fwww.voicebank.ie%2Fartist%2Fmai-ishikawa%3Ffbclid%3DIwZXh0bgNhZW0CMTAAAR3-R237CSUnjxcscuLCHGxfPBCCIED9u73bY75IDvXj-02t5pnBdiK9yEg_aem_Ac3uBFvKYF0lLxh6VWC2wsoFCSxQMywqA5cUt8IzDLjKgnxrBBQkhXIzJUURwswFHIbZkWcuafDV2lBVwjFXmRVR&h=AT1QqYDVf3qsALGRTJoRohs6M1XFHl_URwnIkxcooCIbTNEFa8htnooXnl2ITS2gx1tdyGrvc2YKTZK7UTxMVsZUFkiGpbsyrUG_oQiAgR9vsXx8Mj2pas7fY5O-c5LhAbBuqFJrIV_Qnu50uFXARg

 

隙間

クロウドリとコマドリが真夜中に急に歌いだすことがある。

都会の小鳥たちにたまに見受けられる現象なのだそうだが、そうやって動物たちも人間に似てきてしまうのだろうか。

しかし、このような夜想曲が鳴り響いた次の日の朝は、妙なことに、良い知らせが届くことが多い。

私の新しい詩が、またこちらの文芸誌に掲載されることになった。ひとつ、ふたつ、みっつと詩が取り上げられるたびに、誰かが、「書き続けていいよ」、と言ってくれているみたいで嬉しい。

最近は、ようやくこちらの文化、いや、「やり方」にも慣れてきた。こちらでは、「頑張った」ということがあまり評価されない。頑張るのは自分のためであって、人から評価されるためにすることではない、と改めて気づかされるのである。ただ、日本人の真面目さは決して悪いものではないので、ひとつの取柄として捉え、やはり真面目に取り組むのだが、それだけで真面目を相手に押し付けてしまうこともあり、なかなか塩梅が難しい。

年齢で判断されない社会も、とても気に入っている。応募条件に年齢制限がある場合も稀にあるが、こちらでは経歴書に年齢を書かなくてもいい。そもそも、アジア人女性は若く見られるので、私はどこへ行っても、良い年をして、小娘でいられる。最初は戸惑ったものの、ある意味、タイムスリップしたかのように、20代、30代を生きなおしているような気がして、得をした気分である。年上だからもっと知ってなくてはならないとか、しっかりしていなくてはならない、などと言ったことが、少なくとも演劇界では求められない。むしろ私は今、20代のアーティストたちに何かと助けられている。歳を重ねるとともに、知恵は深まってほしいが、何歳になっても、足元がおぼつかない新人のように、初々しく生きたいものである。

詩を書くようになってからというもの、日常の中にふと現れる隙間というか、穴のなかに吸い込まれることが多くなった。

いつだったか、夫と道端で立っていると、男の子が道の向こう側からぼーっとこちら側を見ていたことがあった。車が目の前をびゅんびゅん通り過ぎても、男の子の目は私たちにくぎ付けだった。私たちの背後に亡霊が見えているのだろうか、と思うほどだった。

すると、母親がぐいっと彼の手を引っ張ったのだった。

子供は、このように、隙間にある何かが見えているように思うのだが、大人になっても、この隙間の中に籠っていたいことがある。子どものまま大人になってしまったなぁ……と時々情けなく思うが、そんな自分も、詩が肯定してくれているように思える今日この頃なのだ。

筆を走らせる闇

アイルランドが文学大国なのは、冬の闇が長いからなのではないかといつも思う。

 

闇は、筆を走らせる。

 

昨夜は、ダブリン市民にとって大変衝撃的な一日だった。闇が深まる頃になると、こういった事件が起きる頻度が高くなるように感じる。ダブリン市内では、バスやパトカーや路面電車が放火されたうえ、警察が暴行を受け、窃盗が多発。大変な騒ぎとなった。反移民を訴える極右の集団が突然暴れ出したのである。

私は、ワークイン・プログレスの発表のために、とある劇場に向かっていたのだが、バス停で永遠にバスを待ちながら、嫌な予感がした。

そもそもの発端は、街の中心で起きた切傷事件だった。「ほらみろ、移民を入れるから治安が悪くなったんだ」といわんばかりに、事件に便乗して暴動は起きた。しかし、その切傷事件現場を救ったのは、配達中のブラジル人の移民男性だった。

一方、ワークイン・プログレスの発表は、語り尽くせないほど有意義な時間だった。劇場の芸術監督の方も、スタッフの方も、同僚のアーティストたちも、「作品の仕上がりを心から楽しみにしている」と次々と声をかけてくださった。次のステップに向けて、素敵なアーティストたちや団体が賛同してくださった。人に声をかけるたびに、清水の舞台から飛び降りるような想いだったが、何かに取りつかれたように、どんどん飛び降りている自分がいた。

震えているばかりの自分に飽きてきたのかもしれない。震えに飽きるまで、とことん震えてみるのもいい。舞い上がることなく、落ち込むこともなく、粛々と進みたい。

昨夜、ダブリン市内は燃えるバスや路面電車で爛々と明るく照らされた。こちらでは、なにかにつけて、火が登場する。なんで、こんなにもアイルランドの若者は火を使いたがるのか、と時々疑問に思うのだが、私自身も、雨が降りしきる暗い冬に突入すると、火を灯したい強い衝動に駆られる。キャンドルを灯すでも、セージを燃やすでも、なんでもいいのだが、何かと火を欲する。闇や水気を吸い取ってくれているような錯覚に陥るのである。

何かと二分化が進んで、分断が目立つ。自分の掲げる正義は本当に正義なのか、いまいちど問い直したい。

私も含め、移民たちは、なんともやりきれない気分で夜を過ごした。移民たちが安全に過ごせる街に、はやく戻ってほしい。

Axis Ballymun / axis Assemble Artists

https://www.axisballymun.ie/assembleartists2023

 

Foundation Programme by Irish Writers Centre and Dublin Book Festival

https://irishwriterscentre.ie/announcing-the-2023-iwc-dbf-foundation-programme-participants/

 

Weft Studio by Dublin Fringe Festival

https://www.fringefest.com/news/announcing-weft-studio-artists-2023-2024

 

Eighth Annual Kyoto Writing Competition

https://www.writersinkyoto.com/2023/06/17/writing-competition/unohana-prize-mai-ishikawa-eighth-annual-kyoto-writing-competition/

 

 

どちらでもない

出会いに溢れた9月だった。

こちらの演劇界にいると、自分の代名詞をThey/them(彼ら)とするノンバイナリーのアーティストと出会うことが多々あり、代名詞を使うたびに緊張していたのだが、そんなことも最近は少しずつ慣れてきたように思う。ノンバイナリーと名乗っている人たちは、実際お会いすると、本当に男性とも女性とも言えない中性的な存在で、不思議な魅力を持つ方たちなのである。

9月はダブリン・フリンジ・フェスティバルが開催され、フェスティバル主催のイニシアティブに参加しているのもあり、いろんなバックグラウンドを持つアーティストと接する機会があった。あまりの価値感の違いに眩暈すらすることもあったが、得たいの知れない何かにエイヤ-っと背中を押されるかのように、いろんな人たちと交差した一カ月だった。

最近は、頻繁にアイリッシュ・ライターズ・センターや、ダブリン・フリンジ・フェスティバルの本部の建物を出入りしている。こちらに移住して3年以上経ったが、ふと誰かとあいさつをしたり、世間話をしているときに、嗚呼、私はアイルランドに移住したんだ、と急にドキっとする瞬間がある。

あらゆる奨学金やメンターシップを経て、自意識過剰になる余裕もなく、緊張する暇もなく、おのずと、躊躇なく自分が書いたものを人に見せられるようになってきた。

時間はかかるものの、こちらでは、舞台作品にせよ、詩集にせよ、作品を発表するまでの道のりがはっきりとしていて、真面目に書き続け、作品の意図さえしっかり伝えられれば、しっかりとバックアップしてくれる。大変だが、理不尽なことがほぼ無く、前向きに頑張れるのがいい。

書いて、消して、書いては、また消して、書いては、削って、を繰り返しながら、徐々に、作品の芯のようなものが見えてくる。この芯が見えたときの感動は、筆舌に尽くしがたい。何か月間、もしくは、何年も作品と向き合っているなかで、必死に手招きをしていると、ふと、どこからともなく姿を現す。

先日、メンターと話をしているときに、こんなことを仰ってくださった。

「あなたの書く作品は、特定のジャンルに振り分けることができない。自伝のようでフィクション。エッセイのようでもあり詩のようでもある。だけど、そこが素敵なので、それは是非貫いてほしい」

敢えて他者が言葉にしたとき、それが、自分がとても大切にしていたことだということに気付く。

そんな体験を経て、ノンバイナリーと名乗る方たちの、「どちらでもない」特異なアイデンティティーのようなものが、理解できた気がしたのである。

1か月ほど前から我が家の庭を訪れるようになったコマドリの赤ちゃんは、たった1か月のうちに、みるみると羽の色が変化していった。羽がひとつひとつ絶妙に生え変わる過程は、もはや芸術。夫と毎日楽しみにしながら、観察している。

毎日、毎日、ひたすら書き続けているからか、日ごとに変わり続けるコマドリの羽の進化を見ていると、私自身も少しは進化しているように感じられる。

昨日、窓際でいつものように執筆に励んでいると、窓の隙間から、小鳥の羽が一枚ひらり部屋のなかに入ってきた。手にとって、光に当てて観察してみたら、そこには、おどろくほど綿密な模様があって、自然の創造力に脱帽すると同時に、私も自然の一部であるという事実に、励まされるのであった。

Axis Ballymun / axis Assemble Artists

https://www.axisballymun.ie/assembleartists2023

 

Foundation Programme by Irish Writers Centre and Dublin Book Festival

https://irishwriterscentre.ie/announcing-the-2023-iwc-dbf-foundation-programme-participants/

 

Weft Studio by Dublin Fringe Festival

https://www.fringefest.com/news/announcing-weft-studio-artists-2023-2024

 

Eighth Annual Kyoto Writing Competition

https://www.writersinkyoto.com/2023/06/17/writing-competition/unohana-prize-mai-ishikawa-eighth-annual-kyoto-writing-competition/

 

タテ社会に、さようなら

こちらにいると、日本で体に染みついていたタテ社会の心得のようなものがどうしても邪魔になる。邪魔になるどころか、失礼になることが多い。

そして、このタテの構造を取っ払ったとき、自分の真の姿が見えてくる。目上の人を敬うわけでも、年下の人を励ますのでもない。ただ人として接する、ということなので、自分が試されているような気がするのである。

ダブリン・フリンジ・フェスティバルが主宰するWeft Studioというグローバル・マジョリティのアーティストを集めたイニシアティブが1週間にわたり開催された。(グローバル・マジョリティは、白人目線のエスニック・マイノリティに代わって最近使われている言葉)黒人と白人の混血、血は完全にアジアだが話すのはポルトガル語や英語、ノンバイナリー、クイア、などなど、複雑なアイデンティティーを持つアーティストたちが集まった。

私自身も、アイデンティティーとはずいぶんと向き合ってきたつもりだが、彼らの体験談を聞いていると、知らず知らず人を差別する人間の残酷さを身に沁みて感じ、そしてその残酷さが、鏡のように跳ね返ってきた。

人それぞれに傷つく部分が違うので、多様なアイデンティティーを持つ人々が集う空間は、とても神経を使う。今まで当たり前に言っていたことが、誰かを傷つけうるからだ。

彼らは、自分が人種的な差別を受ければ、しっかりと組織のトップに訴える。私を含め、日本人は、「いやいや、そんなの大したことじゃない」、と謙遜して我慢することが多いが、考えてみると、若い世代に、「あんたたちも同じように耐えろ」、と言っているようなものなのかもしれない。そんな風に生きてきた自分を顧みる良い機会となった。

異国にきて、マイノリティーであることを体験して初めて知ることの多さ。バックグラウンドがまったく異なる人たちと子どものように創作し、語り、爆笑し、涙し、壁がおのずと溶けて消えた。肩書も、色眼鏡も捨て、ただの人として人と接する気持ちよさに浸った。ずっと一緒に過ごしていると、肌の色も、目の色も、発音も、「違い」と呼ぶもの全てが、見えなくなってくる。

移民というのは、数が少ない段階では、あまり差別されないように思う。移民危機が襲い、国が移民で溢れ始めたときに、差別ははじまる。最近、そんなことを想う。

先日、台風ベティーが通過した。風で折れたいくつもの木の枝が道端に落ちている。台風が去った翌日は、さっそく秋の香りがした。観測史上最も雨が多い七月であったため、夏はどこへ行ったのか、とあっけない気分だが、透き通った秋の空気は、どの国にいても心地よく肺に入ってくる。

今年は、アクシス・バリーマン劇場、アイリッシュ・ライターズ・センター、ダブリン・フリンジ・フェスティバルが主宰するイニシアティブにどっぷりと浸かる。

自分はこれだけの年数を確実に生きてきた、というだけで十分なのであって、何かを主張することも、証明することもなく、今年の残りも、たくさん学びたい。

Axis Ballymun / axis Assemble Artists

https://www.axisballymun.ie/assembleartists2023

 

Foundation Programme by Irish Writers Centre and Dublin Book Festival

https://irishwriterscentre.ie/announcing-the-2023-iwc-dbf-foundation-programme-participants/

 

Weft Studio by Dublin Fringe Festival

https://www.fringefest.com/news/announcing-weft-studio-artists-2023-2024