アイルランドの演劇は、全体として、どこかフィルターを通さない土臭さ、気取らない親しみやすさ、神経質になりすぎない大らかさがあるように思う。
最近のアイルランドでは、国民投票で中絶が合法化されたり、由緒あるゲート劇場の芸術監督がセクハラ疑惑で多くの女性から訴えられたりと、女性たちにとって、大きなシフトが起き始めているかのよう。
そんな中、演劇界の女性たちのエネルギーが止まらない。
パブが多く立ち並び、観光客でにぎわうTemple Barストリートは、古い石畳でできている。ごつごつした石の段差に気を付けながらフラフラ歩いていくと、あちこちのパブから生演奏が心地よく耳に入ってくる。お土産屋さんのショーウィンドーの向こう側からは、緑の帽子を被ったレポラホーン(妖精)が微笑みかけてくる。
如何にも観光者向けといったこの道をもう少し先に行くと、人通りも少し減り、その奥には3件ほど劇場がある。その中の一つが、New Theatreという小劇場だ。共産主義の色が強い本屋が併設されており、政治関連の本が店頭にズラリ。店に入るや否や、本の表紙を飾る見知らぬ革命家と目が合いドキリとする。ここは時折新人作家を後押しするプログラムを儲けているようで、その一環とするお芝居を拝見することができた。脚本、演出、出演、ドラマトゥルグ全て女性だ。キャパ100人程度の小さい劇場だが、多方面で活躍している力ある役者さんたちが出演しているうえ、チケット代はたったの10€程度。
これくらいのサイズの劇場がちょうどいい。
中へ入ると、何やらステージ上には不思議な形をしたクッションのような「もの」が敷き詰められている。題名が「We Can’t Have Monkeys in the House(家の中に猿を入れないで)」なので、猿を思い切り抽象的に模ったものなのか、あるいは、もしかしたら、これは腸の中なのだろうか…。
そんなことを茫然と考えながら、開幕。
物語が展開するうちに、やがて、その得体の知れない物体が、「おっぱい」の群れであることが判明する。
よく見ると、ステージ上にクッションで作られた、溢れんばかりの「おっぱい」たちが敷き詰められている。
4人の女優たちは、そんな「おっぱい=母」に囲まれて、おっぱいを叩いたり、抱きしめたり、懲らしめたり、一緒に踊ったりするのだが、これが最高に可笑しい。
心臓麻痺を起こした威圧的な母親は一切出てこない。4人の姉妹のうちの一人は、「ある事」をきっかけに母親と疎遠になっていたが、これを機に帰郷。母や妹たちの世話をしていた長女は現実逃避気味、後の2人は自分に夢中。とにかく、みんな問題しかない。一人は、母親の存在が大きすぎたのか、自分の気持ちが分からない。
「自分の意見も正しいかもしれないが、相手も正しいかもしれない。だからどっちが正しいのか分からない」(確か、こんな感じ)とのようなセリフがあった。
引き継いだものからの解放と自立。色々感じることがあった。
プロフィール写真を見ると、皆さん本当にべっぴんさんなのだが、まるで本来の自分の顔を敢えて引き延ばすかのような変顔のオンパレード。世間一般でいう「女性らしさ」を根本からぶっ壊すほどの大胆な身体表現。
テンポよく不条理とリアルの間を行ったり来たりする対話劇は大変おかしくて、終始大爆笑。私が見た回は、プレビューだったので演劇関係者が多く見えていたのだが、堅い雰囲気が全くなく、こちらが心配になるほど周りは笑い転げていた。
この作品に留まらず、10月に滞在した際は女性をテーマにした作品が異様に多く、女優たちの大レボリューションという感じだった。
日本語には、女性を形容する素晴らしい言葉が沢山あるが(「嫋やか(たおやか)」「艶やか」「楚々としている」「凛としている」「あだっぽい」)、
それらとは、ちょっと違う畑から生えたような女性像。
開けっ広げなことが「恥」であるかのように思い込んでいた節があったのだが、
果たしてそうなのか――。そんなことを、ふと思わせてくれた芝居だった。
今にも張り裂けそうなほどの強烈なエネルギーが内側にあったからこそ、成立していたように思う。あのマグマのようなもの自体が、女性特有のものなのかもしれない。
「女性らしさ」とは何か、考えさせられた。
「前々からあるものなのに、名前が付けられて初めてその存在を意識する」、というようなことがある。 そういったものに名を与えることが我々芸術家の役目であると、何かの記事で読んだことがある。
私自身も、来年、自身の手掛けた翻訳作品を上演させていただく。脚本、翻訳、演出、出演もすべて女性。この作品とは全く質感は違うが、どこまで、名もなきものに視線を集めることができるだろうか。
Unauthorized copying of images prohibited.