アイルランドという国名を出すと、80%の割合で返ってくる反応が、「イギリス?」か、「アイスランド?」である。
人生何が起こるか分からない。米国カリフォルニア生まれ/育ち、神戸出身の私が、アイルランドとのご縁が生まれるなどとは、一体誰が想像したことでしょう。
生まれ故郷と同じ英語圏にせよ、発音も、使い方も、文化も全く異なるうえ、北や西の方へ行くと、別の言語ではないかと疑うほどの独特の訛りがある。
周りの記号は理解できても、核心の「心」が見えないことがあるのは、いつももどかしく思う。
実は、アイルランドは文学大国であり、サミュエル・ベケットや、オスカー・ワイルド、ジェイムズ・ジョイス(みんな最終的に国外へ出てしまったが)、シェイマス・ヒーニー(北アイルランド)など大変多くの優秀な作家を輩出した国でもある。
本屋などで頻繁に行われるリーディングは大抵無料。覗きに行くと、いやはや――、満席。どこから来たのか分からない老若男女が、静かに言葉に耳を傾ける姿が実に印象的だった。
いつか伺った「プルートで朝食を」などで有名な作家パトリック・マケーブさん本人による朗読会は、教会を改造した立派なSmock Alleyという風情あるホールで行われ、ミュージシャン5-6名と俳優さん1名が加わり、チケット代はたったの7€。奇をてらうようなことはなく、ただ淡々と読み(しかし、読み方が本当にお上手)、ミュージシャンが順番に歌い、奏でるという形式だったが、シンプルかつ豊かで、温かく、とても見応えのある素敵な会だった。
「物語」が大事にされている国だ。
私が一番気に入っているダブリンの穴場、ともいうべき場所がある。それは毎週金曜日の夜に開催される、An Goilinという40年近くの伝統を持つ、いわば「歌唱倶楽部」のようなものだ。ルールは実に単純。ひとりずつアカペラで歌い、「人が歌っている時はしっかりと耳を傾ける」――、それだけだ。
伝統的な歌であれば、何を唄っても構わない。どうやら学校の先生たちが中心となっているグループらしく、Teachers’ Clubが拠点とするジョージア風の建物のとある一室で行われる。建物の中にはバーがあり、飲みものは持ち込み自由。誰でも参加することができ、費用はドネーション(維持費)を3€払うだけ。
ここでは、ごく一般の方たちが順番に歌うのだが、みんな実に深い良い声をしていて、それぞれの人生がにじみ出ている。上手い下手にかかわらず、本当に聴きごたえがあるのである。コーラス部分になると、周りの人達も一斉に加わったりもするのだが、目を瞑りながら発せられるその声の重なり方がまるで祈りのようで、最初聞いた時は涙が流れた。
歌は、物語性が強く、起承転結があるものが多い。中には自分で作詞作曲してくる人もいるのだが、これが時に涙するほど素晴らしいのだ。ある方は、「90歳のお爺ちゃんにパブで教わった」といって、妻の尻に敷かれた男性の歌を面白おかしく披露し、若い男性客2人が、お互いに顔を見合って苦笑いする。こういった口頭伝承文化が、未だに根付いているのだろか。笑いの要素もふんだんに散りばめられ、部屋はよく温かい笑いに包まれる。
ここまでオープンにして、色んな人達がランダムに出入りする中、場の空気を乱す者がいてもおかしくないのだが、全くそういうことがない。
このグループが最も大事にしている「人の歌に耳を傾ける」というルールだけが粛々と守られていて、ウェルカムな雰囲気でありつつも、どこか不思議な緊張感が保たれているのだった。
それに、一般といえども(時にゲストの方をおよびすることもあるが)、皆さんの歌が実に豊かで美しいものだから、乱暴に歌いだすような人もいない。
時に、お酒の酔いに任せることはあっても、お酒に飲まれたような歌を歌う人もいない。
こんなシンプルなルール一つだけで、ここまで場が引き締まるのは、驚きである。
ここでは、シャンノースと呼ばれる、ゲール語(アイルランド語)をベースとした民謡のような歌や、スコットランド民謡、あるいは、イングランドのフォークソング的なものが披露されることが多いのだが、そもそもなぜ、人が歌いだしたのかを思い出させてくれるほど、土臭く、人間味にあふれ、「ふるさと」の香りが漂うのだった。
すると、「君も歌わないのかい?」とある男性が声をかけてきた。アジア人はいつも私一人なので、気になって声をかけてくれたようだ。
歌は決して苦手ではないのだが、ここまで地に根付いた歌を歌われてしまうと、ついつい自分が薄っぺらく思えてしまい、どこから「声」を出せばいいのか分からなくなるものだ。アメリカで生まれ育った私は、日本語の歌がどうしてもさまにならないのだし、こんな時にアイデンティティーの不安定さが浮き彫りになる。
少々考えてから、「No, not today(いいえ、今日はやめておこうかな)」と返した。
相方さんの家へ戻り、何気に「赤とんぼ」を繰り返し練習してみたが、やはりさまにならない。
あの場で披露できるのは、いつの日か。
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