maimaiomaiのブログ

アイルランドと日本の狭間で 言葉を解き、紡ぎなおす者として

灯台へ

 

先日、四か月ぶりにバスに乗った。

四か月も乗っていないと、もう一生乗ることがないような気がしていたのだが

実際乗ってみると、まるでたった昨日乗ったかのように、

当たり前のごとく、いつもの行動をなぞるようにして、

一度も戸惑うことなく乗れている自分にむしろ驚いてしまった。

 

久しぶりに訪れた近くの崖の上にある灯台は、美しかった。

 

 

雨が数日間続いたせいか、緑が見事であった。

ジョニー・キャッシュの歌に、アイルランドのことを歌った「40シェーズ・オブ・グレイ(40 Shades of Green)」(40種類の緑という意味)という歌があるけれど、アイルランドには本当にそれくらい色んな種類の緑がある。

昔から緑を見ると視力が回復するというが

毎日、この緑にうっとりしながら、

このまま私の視力も回復することを、ひそかに願っていたりするのだ。

 

アイルランドでは段階的に規制を解除していく方針であったが、あまりにも遅いとのことで国民から不満の声があり、結局かなり前倒しになって、629日には、ほぼほとんどの規制が解除となった。

交通機関やソーシャル・ディスタンシングが不可能な場所ではマスクが義務づけられているが、それ以外は、ほぼ自由に行動できるようになった。

 

 

前倒しになったものの、当初は、劇場等は810日から再開可能、ということだったので演劇関係者もそれに合わせて用意を進めており、

当然のことながら解除されたからといって急に何かが上演されるわけではない。

おそらくこのままいくと9月に開催されるダブリン・フリンジ・フェスティバルが実際に劇場で上演される初めての企画(とはいえ、オンライン企画も交えるかと)となるのではないだろうか。

 

ロックダウンを機に、ラジオが再び注目されている。

アイルランドでは、ラジオドラマで作家としてデビューする方も少なくない。

かつて、英語圏で初となる国営ラジオ局専属のラジオ劇団があったほどで、

その劇団員は公務員扱いであったという。

既婚女性が働くことが禁じられた時代に、

熟した女性の声が必要とのことで、このラジオ劇団だけは免除されていたのだとか。

改めて無駄のないメディアで、時代を超えて生き続ける良い媒体であるように思う。

何より、無駄がないので想像力が養われる。

 

 

街を歩いていると、コロナ禍前に通っていたカフェが閉店し、売り出しになっていたりと、胸の痛む場面もあり、容易にこんなことを言うべきではないかもしれないのだが、私個人としては、この自粛期間は、自分と向き合う良い時間であったように思う。

 

先日、アイリッシュ・タイムズの記事に、

 

「この数か月間、時間とは単なる贅沢ではなく、創造過程において『必要なもの』だということを思い出させてくれた。作品を上演しなければならないというスケジュールに追われて、もうすぐで忘れるところだった」

 

と、とある演劇コラムニストが書いてあった。

 

 

毎日庭で育てている野菜の成長ぶりを見ていると、

同じところで手に入れた種でも、ある種は発芽し、ある種は全く発芽しない。

同じ環境で育てても、ある苗はぐんぐん育ち、ある苗は、手厚い世話にもかかわらず徐々にしおれていく。

一方で、表面に見えないようにして土の下で密かに太い根を張り巡らし、

瞬く間に他の野菜のエリアに侵入していくたくましいハーブ。

爆発しそうなほど見事な実が育つ苗もあれば、葉っぱだけがやたらに育ち、実が全く育たない苗もある。

最初は勢いよく育っていたのに、突然何かを悟り、何かを手放すようにして、

ゆっくりと退化の一途をたどるものもいる。

誰よりも速く育ったと思いきや、実際に実を切ってみると中が空洞だったりもする。

 

原因を探り、改善するのも一つの手であるが、

印象として、自然の中に確実なものなど何一つないということに気付かせてくれたように思う。

 

 

創造性というものは、どこまでも不確実である。

答えが一つではないゆえに、とても脆くて、つかみどころが無くて、

そこを使って生きていくということは、

足場の不安定な場所を無理やり歩くようで、それに、もろに自分をさらけ出すようで、

非常に怖いことであるように思う。

しかし、私は今回のこの期間を経て、改めて、この創造性の持つ不確実さが如何に大切か——というより、当たり前であるということを受け入れ、

どこか奥に閉じ込めていたそれを取り出し、

水をやり、息をさせてあげる術を学んだ。

 

そんなことをしていると、少しずつではあるが、いろいろな方から、芸術に関係する仕事やら企画やらに声をかけていただくようになった。

また、これを機にある企画をはじめたのだが、この自粛期間がなければ、おそらくこの自分の奥底に眠る想いに気付けなかっただろうと思う。

 

 

最初はぎこちなかったシャンノースの伝統の踊りも、四か月も毎日キッチンで踊っていれば、それなりに上達する。

そんな分かりやすい実例を身をもって体験しながら、

今まで「無理」だと決めつけていたことも、

「ゆっくり」が許されるのであれば、「可能」になるのかもしれないと思えたのだった。

 

この無理やりにも立ち止まらなければならない空気が無ければ、

私はそこにも気づけず、目先の「確実」にしがみつき、

もっと奥に眠る創造性に手を伸ばす時間さえも自分に与えず、

自分の本当の気持ちを無視していたに違いない。

 

とはいえ、そんな悠長なことは言っていられないこともあるので、

もちろん、仕事は仕事でスピーディーにこなさなければならないのであるけれど……。

 

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