maimaiomaiのブログ

アイルランドと日本の狭間で 言葉を解き、紡ぎなおす者として

一つの生き方

 

先月、演劇祭のため、アイルランド北部の街、グレンティーズという街を訪れた際に、相方の友人たちと飲む機会があった。

そして、その中に精神科医の方がいらした。

 

私が日本人だと知ると真っ先に、

 

「最近、精神科医の国際学会で《ひきこもり》が話題になってね」

 

と仰った。

今や、Omotenashiとか、Umamiのように、Hikikomoriもグローバル用語と化しているのかもしれない。

本当に《ひきこもり》は日本特有のものなのか、と聞くと、そうだと答えた。

銃乱射事件の件数が、米国が他国と比べて格段に多いように、ひきこもりの数は日本が群を抜いて“ダントツ”なのだという。

 

 

「精神的出産の失敗だよ」と仰った。

つまり、精神的に自分と親とを切り離すことができないことで、そういう現象が起きるのだと説明なさった。

 

《ひきこもり》とはどういう意味なのかと聞かれたので、私はConfinementであると答えたのだが(今思えば、若干意味が違うのだけど…)実はこのConfinementという言葉は、出産の意味も含まれるのだという。

昔、出産する際に女性は部屋に閉じこもったので、そう呼ぶようになったという説もある。

 

精神的出産の失敗を意味する《ひきこもり》が出産の意味を持つConfinementと同意であるというのは、とても興味深い話だ。

語源に繋がりがあるにしろ、ないにしろ、人間がひきこもる行為と、創造性は深く繋がっているように思う。

 

 

そう考えると、ひきこもってしまう人間には、実は物凄い創造性が眠っているのかもしれない。もしそうだとしたら、それを、引き出す方法はないのだろうかと考えてしまう。

 

そういえば昔、不思議な夢を見た。

思えば、あれが私にとって大きな人生の分岐点だったのかもしれない。

 

ある人が私のもとへやってきて、「なんで、そんなことしたの?」と聞いてくる。

私は、「だって〇さんがそう言ったから」とすかさず答える。

するともう一人違う人間がやってきて、「なんで、そんなことしたの?」と同じことを聞いてくる。

私は同じように、「だって〇さんが、そう言ったから」と答える。

何回もこのやり取りが繰り返された後、最後にやってきた人間が

「でも、〇さんなんて、存在しないんだよ」と言ったのだった。

 

まるで大きな石が頭上で割れるような衝撃を受け、目を覚ます。

胸のあたりが、まだドクドク鳴り、心臓が耳のあたりまで上がってくるかのようだった。

 

「〇さんが居ないって、どういうことだろう」

そんなことを茫然と考えながら、しばらくベッドの上で放心状態になっていたのを覚えている。

 

 

 

自分の人生を、誰のせいにもできない。

責任を押し付ける相手がいないという

一見当たり前のように思えるこの事実が、錨のように体に重くのしかかった。

まるで、今まで自分ではない別の人のために生きてきたように思えて、

自分の中に大きな穴が空いてしまったような感覚に陥り、

その空虚感が耐えられなくなった。

 

それからというもの、少しずつ、自分の人生に、行動一つ一つに、

責任を持つようになったのだと思う。

気付くのが遅いかもしれないけれど、遅すぎることなんてない。

 

たとえ大変でも、自分の選択に責任を持つ人生の清々しさよ。

あの時から、内側に向いていたものが外に向けられ、少しずつ部屋の扉を開けて、

部屋から一歩ずつ出ていったような気がする。

 

たった一つの夢が、こんなにも大きく人生に影響を与えるのだから、

夢だってバカにはできない。

 

その精神科医さんの話を聞いて、真っ先にこの夢のことを思い出した。

 

アメリカから日本に帰国したての頃、人口密度のせいか、単純に全体的に空間が狭くなったせいか、

急に自意識過剰になったのを覚えている。

100メートル先にあった他者の目が突然、1メートル以内に近づいたような。

そうすることで、一気に、他者の目を気にするようになり、

自分の心の声が聞こえなくなってしまったように思う。

 

そういった環境も、このHikikomori現象に関係しているのだろうか。

 

興味深かったのが、最後にその方が「それも一つの《生き方》」だと仰ったことだった。

 

 

Way of life. 

 

あまりにも行き過ぎた例は、やはり何か対処しなければならないのかもしれないが、

私自身も、短期的に引きこもりたくなることは多々ある。

アイルランドへ行くと、家の庭のお世話をしながら、料理をしながら、家で翻訳の仕事をしているので、相方以外の人と話をしないことが多い。

 

それでも、それはそれで、とても《良い時間》だし、嫌いではない。

世間の雑音から逃れて、自分の心に耳を傾ける穏やかな時間なのだ。

すべてを“病気”とみなさず、すぐに“恥”につなげず、

一つの道である、一つの通り道である、一つの生き方である、と解釈することも、

大切なのかもしれない。

 

 

 

とても良い夜だった。

他国の方たちとこのようにして、文化を超えて深い話ができることは、

まさに「喜び」であると思う。

 

随分、長い間アイデンティティーについて悩んだが、

今は、この「間」にいることを、心地よく思う。

それが私の居場所なのかもしれないと思うようになった。

「あっち」でもない、「こっち」でもない。

その「間」で、両方の風景が見えて、分かる。それでいい。

 

それが、一つの道になることを願って。

 

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