何気に、これまでに北西部グレンティーズやドニゴール地方、北アイルランドの街アーマー、コーク、ディングル半島など
あらゆるアイルランドの街を訪れたが、ド田舎の真っただ中に滞在したのは今回が初めてだったのかもしれない。
相方の従弟様の素敵な計らいで、リシーンという西部の街(村?)で彼女が運営するコテージに滞在させていただいた。
電車とバスを乗り継ぐこと約5時間———。バスが滑らかな野原の中を上ったり下がったりした後、私たちはバス停とも何も書かれていない野原のど真ん中に降ろされた。
周りを見渡すと、草、草、そして、草。少し遠くに、海が微かに見えた。
隣には小さな教会があり、お墓の凸凹とした地面に立ち並ぶケルティック・クロスは微妙な角度で頭をかしげながら立っている。
案の定、コテージへ向かう途中で迷子になった私たちは、お世話になる女性に電話をすることにした。
「ロバが右手に見えます」
目印は無いかと聞かれた相方は、とっさにこう答えた。
確かに、目印と言えば、右手でほのぼのと戯れているロバ2頭しかない。
それか、左手にある、なんとも形容しがたい小屋。
「そして、左手には、小屋があります」
全く手がかりにならないため、結局、その女性はわざわざ車で私たちを探しに来てくれた。
都会なら、「右手にスターバックス」などと言うだろうけれど、
「右手にロバ」とは、ある意味素敵である。
車を持っていない私たちは、重たい荷物を手に、よく迷子になる。
あるいは、バスや電車を目掛けて、ずり落ちていく鞄を辛うじて抱えながら駅まで必死に走ることだって、よくある。
不便と言えば不便だが、そのたびに色んな発見があるので、最近は楽しむようにしている。
一番近いパブは徒歩20分。
バス停までは徒歩40分。
田舎なので、夜は真っ暗。初めて携帯のトーチ(懐中電灯)機能を使った。
googleさんが、英国のクイーンズ訛りで話しかけてくるので、相方は少々不満そうであった。
そうか、夜は暗いんだな——、なんて当たり前のことを思う。
この田舎の夜は本当に深い。コテージから一歩出ただけで、慄いてしまうほどの深い暗さであった。それに、その時間になると、何とも言えない孤独感が舞い降りる。
しかし、そんな中、頑張って歩いていると、やがて雲が突然晴れて満点の星空が頭上に現れる。あまりにもきれいで、私と相方は、思わずその場で立ち尽くしながら、空を呆然と見上げた。
「あれが北斗七星、あれが、オリオン座。あのやたらにまぶしいのは、イヴニング・スターかな?」
田舎道を人が歩いていることは稀なので、もちろん自動車に気を付けなければならない。
耳の穴をしっかり広げ、車の音がしたらすぐに避ける。都会に慣れてしまって、ついついボーっとしながら歩いてしまう私は、よく相方に怒られてしまう。
雨の日、晴れの日、朝、昼、夜。
都会とは違って、自然の表情は実に幅広くて、同じ場所とは思えないほど雰囲気が激変する。
役者でいえば、憑依型である。
晴れの日はとてもフレンドリーに手招きをするが、
時に激しい風で狂気を見せつけては私たちを突き放し、
夜になると、計り知れないほどの孤独感を漂わせるものだから、
思わず扉を閉め、暖炉に火をつけて、そぉっとしておきたくなる。
曇りが多かったが、それでも、2日ほど晴天に恵まれた。
以前にも何度も触れているが、アイルランドは天気が変わりやすいので、
勘に任せるしかない。気まぐれな太陽が顔を出せば、洗濯も仕事も何もかも放り出し、外に出て太陽を浴びる———そういう習慣が身についてきた。
最終日は、スカルという街へ。
なんの変哲もない港町であるが、私はここをえらく気に入った。
今のところ、アイルランドで一番好きな街かもしれない。
海辺の道を歩いていると、光を浴びてきらきらと輝く草がワサワサと揺れている。
なぜか、アイルランドの芝生は一年中、青々としている。日本とは種類が違うのだろうか。
この風と速度と、ワサワサと揺れる草の組み合わせは、どうしても昔擦り切れるほど見た「赤毛のアン」の映画を思い出してしまう。
まさか、自分がここまで来て芝生の揺れ具合に感動するとは思ってもみなかったが、
こちらの草は本当にきれいなのだ。
刈られすぎていないから、ゆらゆらと揺れるのである。
車のない生活も良いものである。
車で移動していたら、揺れる草に感動することもなければ、
夜道で星空を見上げることもなかっただろう。
すれ違う人々とあいさつを交わすこともない。
そして、ユニークなタクシーの運ちゃんの人生談に耳を傾けることもないだろう。
旅の最後を締めくくったのは、ダブリンについてから乗ったタクシーの運ちゃんであった。走行中、たまたま右手に巨大なギネス博物館が見えたので、ふと相方が、
「でも、世界最大のギネス工場はナイジェリアになるんだよ」とポロりと言った。
そして偶然にも、そのタクシーの運ちゃんが、たまたまナイジェリア出身だったのである。
そこから話に花が咲く。ヨーロッパ中の国々で移民として暮らした経験のある運ちゃんは、アイルランドは最高の国だと褒めたたえる。
「英国はどうだった?」と聞くと、
「Ahhhhhh!!!あぁぁあああ~(顔を思い切り歪ませる)」と言う。
「フランスはどうだった?」と聞くと、
「OOoooohhh...ううぅぅぅ~(お化けが出てくるような表情をする)」と言う。
顔の表情と不思議な擬音語でそれぞれの国の体験を見事に表現するので、あまりに面白くて、私は調子に乗って次々に色んな国を聞いてみた。
愉快そうなおじさまだったが、さぞかし苦労したのだろう。
今は、娘と息子がこの国で立派に独立し、幸せに暮らしているという。
「アイルランドは良い国だ。みんな愛嬌がある。
こちらさえ心を開けば、向こうも開いてくれる」
その何気無い言葉に、少し感動してしまった。確かにそうである。
異国の国に来ると、そう感じる機会が多い。すべては自分次第であり、
こちらさえ開けば、向こうも開いてくれる。
しかし、とてもエネルギーのいることだ。
ナイジェリア政府の腐敗まみれの現状を嘆きながら、
「みんな、Greed(欲)に目がくらんじゃうんだな。すべて、欲が原因だ」
とGreedという言葉を連発しながら、相変わらずアイルランドという国を褒めたたえた。
月並みな言葉でも、経験豊富な人が言うと、ずっしりと心に響くということがある。
旅の締めくくりに、豊かな人生を目の当たりにさせていただいた。
そして、ダブリンの街中を走る中、右手にスターバックスのサインが見えてきた。
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