「橋からの眺め」というアーサー・ミラーの戯曲がある。
最近、ワークショップの通訳のために初めて読んだのであるが、題名を見て、これはまさに私のことではないかとふと思ったのだった。
人生は選択の連続で、「なりたい自分」に向かって日々、誰もが無意識に無数の選択をしているのだと思うのだが、
言い換えると、「見たい景色」に向かって、選択しながら1センチずつ、自分の立ち位置を移動しているとも言えるのではないだろうか。
自分が舞台に立つのを辞め、通訳やら翻訳やらに徹するようになって
初めて見えた景色というものがある。
日本の演劇界は、アイルランドの演劇界と違って、信じているメソッドのようなものがそれぞれの団体によって物凄く異なるように思うのだが、
幸い、通訳やら翻訳やらで、その演劇界に点在する様々な世界を垣間見ることができた。
それまでは、エゴやら主観が働きすぎて自分と違うものは敵のように見ていたところがあったのだけれど、
いざ、「橋」の役割を担うようになってからは、そのような意識は完全に消え失せた。
おそらく私は、しばらくは島から離れ、一度、この橋からの島の景色が見たかったのかもしれないと、つくづく思うのだ。
時に、主観というものは厄介である。かといって、客観視が良いかというと
そうでもない。何かを表現する者は、ある程度、強い主観が必要に思うからだ。
昔から「どちらか」に旗を揚げることができない人間だった。
そういう白黒つける行為が滅法苦手で、
いつも真ん中で、あるいは蚊帳の外でお互いの意見を聞き、「ふむふむ」と言ってから
スーっとその場を立ち去るような卑怯なところがある。
そういう気質なものだから、言い換えると、通訳などのような中間地点に立つ仕事に就くのは必然だったのかもしれない。
そういえば最近、アイルランドで驚いたことがある。
私はアメリカに何年も住んでいたが、(親から大事に守られていたということもあったのかもしれないが)ほとんど人種差別的な扱いをされた記憶がない。
あるいは、単に忘れているだけなのかもしれないが…
アイルランド人は基本的に、非常に人懐っこく優しい方たちなのだが、
十代の男の子たちは、どうも違う世界に住んでいるようである。
というのも道端を歩いていると、十代の男の子たちに「チンク!」(中国人の蔑称)と叫ばれたこともあるし、
それに近い言葉で野次られたこともある。
いずれにせよ、十代の男の子なのだ。
私は、チンクと呼ばれたのが人生初めてだったので、初めは心臓が止まるほどショッキングで、その場で倒れそうになった。
そこのところ、相方は凄い。1秒も待たずに、すかさず、「ファック・オフ!」と言い返す。
この反応の速さには、いつも驚かされる。
こちらの方たちは、とにかく反応が速い。言葉の返しが恐ろしく速い。
私はショックで、唖然としてただ立ち尽くしてバカみたいな顔をすることしかできなかったのだが、
しばらく、そのまま考え込んでしまった。
「なんで、いつも十代の男の子なんだろう?あの子たちの中で何が起きているんだろう?」
ショックのまま、そんなことを相方に聞いてみる。
「不安なんだよ」
とぷんぷんしながら答える相方。
不安かぁ。つまり、アイデンティティーが不安定だということなのだろうか。
だから相手の違いが、恐ろしいのだろうか。
しかし、相方も私と一緒に街を歩くようになって生まれて初めてこのような光景を見たという。何十年もこの国に住んでいて、この国のそういった側面を、初めて見たというのだ。
やはり、立ち位置によって見える光景は変わるようである。
アイルランドで発見したもう一つの風景は、笑顔である。
そんなのどこにでもあるじゃないかと言われるかもしれないが、
例えば、ダブリンで(おそらく)移民としてレストランで働いているウェイトレスの笑顔の力は凄い。
もうこれは、日本ではあんまり見たことが無いレベルの高尚な笑顔だ。
異国で生きていくという覚悟が見えるというか——、
不思議なことに、この笑顔で、すべてがチャラになるということがある。
偏見も境界線も消え、一気に親近感が生まれる。これは異国の地に踏み入れた人間にしか
分からない類の笑顔だと思う。
でも、こういった時に、
当たり前でないことを、当たり前のようにとらえている怠惰な姿勢に気が付き、
ハッとさせられるのだ。
人間というのは面白い生き物だなと思うことがある。
統一されている時は、どこかで別れよう、別れようという力が生まれ、
分断されている時には、どこからか、繋がろうというエネルギーに包まれる。
もしかしたら、いつか、どちらかの島に落ち着くことがあったとしても、
今しばらくは、この橋からの眺めを楽しもうと思う。
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