日本から送った荷物がすべて届いた。
やっと自分の一部が戻ってきたような、なんとも言えない安堵感を覚えた。
郵便局の船便とSAL便を利用したのだが、
SAL便は数週間以内に届き、船便は地域によっては半年くらいかかることもあると言われていたものの、結局は約2か月でしっかりと我が家の玄関にひょっこりと現れた。
あの大海原を超えて、波に揺られてきたのかと思うと感無量である。
段ボールに謎の覗き穴が開いていたり、
送った時は緊張感のあった布テープがヨレヨレになっていたり、
へこむはずのないものが凹んでいたりと、いろいろと突っ込みどころはあったものの、
私としては無事にアイルランドへたどり着いてくれてありがとう
という気持ちの方が大きく、
郵便局のお兄ちゃんが去ったあとしばらくの間、
玄関に並べられた段ボールの山に見とれていた。
今回の引っ越しで、そして、こちらへ移住して、確実なことなど一つもないということを改めて感じるのだった。
如何に私が、今まで確実な社会に生き、それを当たり前に生きていたかが分かる。
日本はそういう意味で、良くも悪くも、本当に「しっかりとした」国なのかもしれない。
こちらでは、何かと毎日が「賭け」で、
「来るかもしれないし、来ないかもしれない。それは誰にも分らない」
なんてことが日常茶飯事。
電気屋さんも、トイレの修理屋さんも、来るかもしれないし来ないかもしれない、
ということが本当に多いのだが、
結局いつも非常にタイミングの良い時に玄関のベルが鳴る。
そういえば、梅干しが入っていたSAL便の方は、
病気でうなされ、「梅干しが欲しい…」と切実に思っていた次の日に到着し、
箪笥の中に入れていたセーターに巨大な穴を見つけ(こちらの犯人は蛾なのだそう)、慌てて防虫剤を探しに出るもどこにも売っておらず途方に暮れていた次の日に、
防虫剤の入った船便の荷物が届いた。
こういう、なんとも言えない「不確実の中のグッド・タイミング」を体験すると、
不確実であるのも、なかなか良いものだなぁと感じる。
確実な社会では体験したことのない感動がある。
私は、役者に「花がある」という表現がとても好きである。
英語の「Presence(存在感)」という表現とは少し違って、
奥行きがあるように思う。
そうして、さらに白洲正子さんは、「花がこぼれる」という表現を使ってらっしゃる。
これがまたいい。
しかし現代は、こういう瞬間は稀にしか見られないと言う。
「多くの場合、軽い能とか、仕舞(素踊)のような力を抜いた時にしか見られないことです。それはたぶん、腕の見せ場がないために、やすやすとして芸風になるからで、
腕のふるえる難曲でも、なお素人の即興めいたものが現れるなら、
これ以上の至芸はないと思うのですが、職人的な技術が発達しすぎた今日、
そんなものを望むのは、贅沢な注文でしょうか」
少し違うかもしれないが、私はこういうことを、他の芸術にも感じることが多い。
例えばタップダンスに関してもそうで、本場ニューヨークのタップダンスの技術はもう洗練されすぎていて心がついていけない。
あの技術には圧倒されるし、
賞賛に値するものなのかもしれないのだが、
多くの場合、技術ばかりが目についてしまって、
見ている側としては思わず息を止めてしまい、
心の通気性が悪くなってしまうことが多々ある。
それこそ、花のこぼれるような、緩んだ瞬間があまりないように感じられる。
無理やりひねった蛇口から出る音はせわしないが、
水を止めた後に、数秒遅れて垂れる一滴の水の音は、よく響くものである。
もちろん、そんなことも人好き好きであると思うのだが、
私は、そういう意味で、以前にも触れたアイルランドのシャンノース・ダンス(同じく床を踏み鳴らす踊り)をとても気に入っている。
多くのダンサーが、力が抜けていて、良い意味で隙がある。
特に高度な技術を見せつけるわけでもないし、
何より、みんな楽しそうである。
力を抜くのは難しい。抜いてしまえばすべてが抜けて芯を失ってしまい、
抜かないようにすれば、力が入ってしまう。
こういう体験を積みかさねた結果、私は、焦って何かをしようとした際に、
おのずとストップがかかるようになってきた。
そうして、焦りが故に、穴を埋めたくて仕方のない手を引き止めていると、
すっぽりと自分の手の平サイズのものが舞い降りてくるのだ。
そして、「こぼれる」と言えば、つい先日のこと---
この前の記事で触れた西アイルランドへの旅の途中、お世話になった女性がいて、
彼女に可愛い靴下をプレゼントした。
無事、彼女にその靴下を渡し、帰りのバスの中で揺れていると、
携帯につけていたお守りがなくなっていることに気付く。
あれ、どこかで落としたのだろうか——。鞄の中を探っていると、その女性からメッセージを受信する。
「素敵な靴下と、日本のキーホルダーをありがとう」
日本のキーホルダーを渡した記憶がないので、しばし混乱していたのだが、
やがて、それが無くなったお守りであることに気付く。
知らぬうちに、携帯から離れて、靴下の入った袋の中へこぼれたのだ。
その「離れ方」も見事で、特に紐がちぎれた形跡も、強い力が加わった形跡もない。
ただ、うまい具合に、糸が「ほどけた」という感じなのである。
返して、というのもなんだし、これはこれで面白いので、
そのままにしておくことにした。
目を離した隙に、自分から何かがすり抜けていき、
音もたてずに誰かがそれを受け取る。
人生は、そうやって人が空けた穴に頼っていることが多いのかもしれない。
だからこそ、そぉっと、素知らぬ振りをして、
穴を開けたままにすることも大事なのだと私は思う。
Unauthorized copying of images strictly prohibited.