こちらではよくラジオを聴く。
朝食の時間には、真っ先にラジオの電源を入れ、ポリッジ(オートミール)を火にかける。
こちらへ来て身に着いた「良い」習慣である。日本であまりラジオを聞いたことがないのだが、改めてラジオの良さを感じる。
選挙が近づいている今、ラジオの番組内では選挙に関する激しい討論が繰り広げられる。
以前、このブログでアイルランド人はしゃべりが止まらない人が多く、
会話に入る隙がないということに触れたが、ラジオの中でも、もちろんそれは変わらない。
では、しゃべり好きなアイルランド人と、しゃべり好きなアイルランド人が討論するとどうなるかというと、二重奏になるのである。
しかも、こちらの選挙関係の討論は熱いので、意見の反する二人が討論をしだすと
見事な不協和音の二重奏が出来上がる。
最近私の朝は、そんな二重奏とフルーツとヨーグルトとお粥(ポリッジ)から始まるのだ。
ダブリンでは今、トラッド・フェスなるものが開催されている。
トラッドとは「トラディショナル(伝統)の略で、
アイルランドの伝統音楽をフィーチャーした、毎年恒例の音楽フェスだ。
由緒あるお城やパブなどの会場を使い、至るところで、若手からベテランまで様々なミュージシャンたちが、伝統音楽を披露する。
1950年代までは主にアンダーグランドで奏でられていたアイルランドのトラッド(伝統音楽)は、
1960年代からリバイバル運動が起こり、1970年代には世界へ広まった。
今でもこの文化を次世代へ受け渡していこうという動きや努力が至るところで見受けられる。
アンダーグランドのレジェンドたちの音楽を引き継いだ才能ある若手ミュージシャンが、テレビ番組などとコラボレーションをして伝統音楽を取り上げ、国内に広げていくなど、先人たちの地道で多大なる努力の形跡がある。
こちらでよく耳にする「シャンノース」というのは、「古い道」、「古いやり方」というような意味らしい。
シャンノースは、踊りのジャンルと歌のジャンル両方を指す言葉である。
踊りのシャンノースは、アイリッシュ・ダンスを少し崩したような、靴を床で鳴らすダンスで、
歌はアイルランド語で歌われる民謡のようなものである。
民謡は、深い悲しみをうたった歌が多い。
飢餓や英国による支配などを経験しているアイルランドは、長い間貧しく、多くの者が出稼ぎのため海外へ移住した。
それは、いわゆるほかに選択肢が無いというような、やむを得ない移住だったそうである。
親への想い、母国から引きちぎられる痛み、恋人との別れ——、そういった歌が多い。
しかし、感情的に、心を込めて歌うかというと、そうではない。
その深い悲しみを綴った歌詞とは裏腹に、表に出てくる表現は実に淡々としている。
あるいは皮肉や笑いに変換したりもする。
悲しみの根が深いだけに、感傷的な表現などは、むしろ邪魔で、
時には甘えのようにさえ感じられる。
一方で、アイルランドが英国にまだ支配されていた時代の英国女王が、
アイルランド国民の前で夕食の前に演説するという設定の、皮肉に満ちた歌もある。
アイルランド人が英国人のことを少し皮肉っていじるというのは、もう、お決まりのギャクのようである。決して悪気はないようだ。
「気に障ったらごめん。でも、英国人をいじらないわけにはいかないんだ」
と以前、こちらの歌手の方がMC中に仰った。
楽器の演奏も、淡々と行う。パブなどで演奏する時には客に背を向けたりもする。
拍手しようが、しまいが、関係ない。ミュージシャンたちは、自分たちのために演奏する。
あるいは、お互いから音楽を学び取るためかもしれない。
パブの片隅で淡々と演奏した後、飲んでいる客から疎らな拍手が起こる。
お辞儀もしない、愛想さえもふりまかない。
ただ、他のミュージシャンと、これまた淡々と次の曲について話し合う。
しかし、必ず部屋のどこか片隅で、真剣に音楽に耳を傾けながら静かにギネスを飲む客が数人いる。
選択肢のなさというのは、確かに不便かもしれないが、
そういう状況の方が人間は、胸を打つものを生み出すのかもしれない。
日本人の私でさえも、彼らの歌を聴くと、胸にしっかりと響く。
最近読んだ本に、遺伝子には栄養だけでなく、悲劇的な記憶なども刻まれるということが書かれていた。
それぞれの土地に独特の気性や気質があるのは、そのせいだという。
飢餓、地震、貧困、この記憶は遺伝子に刻まれるのだそうだ。
なるほど、それは納得である。だとすれば、この土地の長い長い歴史が、しっかりと彼らの遺伝子に刻み続けられているのかもしれない。
若いのに、まるで年寄りのような熟練した歌を歌う人がたまに見受けられるのは、そのせいかもしれない。
何よりも素晴らしいなと思うのは、伝統音楽と言っても、
生活に根付いているところである。
日本でいう伝統芸能というと、なんだか非常に敷居が高く、弟子入りでもしないといけないような印象があるが(今はそうでもないのかもしれないけれど)、
こちらはパブへ行けば、その一角でベテランの音楽家から学べるというようなところがあるらしい。
パブへ行くと、そこには必ずベテランらしき人と、若手との交流がある。
それに、音楽が人々の生活の中に存在している分、
プロとアマチュアの境界線が非常にあいまいな印象を受けるのだ。
むしろ、そんなところで線引きすることそのものが、不純にさえ思えてくる。
楽器で奏でるアイルランド音楽は、思わず足踏みをしたくなるものが多い。
だから、ここから靴を鳴らすシャンノース・ダンスが生まれたのは、
必然だったのかもしれない。
ミュージシャンが音楽を奏で始めると、おのずとお客様も椅子の下で足踏みをする。
最初は恥じらいながらだったのが徐々に大胆になってゆく。「ドン、ドン、ドン、」という音が、床を揺らし、
不思議な高揚感が生まれる。
シャンノースのステップはさほど細かくない、シンプルなものが多い。
だからこそ、自分のパーソナリティーが問われるというようなところがある。
こちらへ来て、シャンノース・ダンスのレッスンを受けているのだが、
足踏みをしているうちに、自分の奥底から得体の知れないエネルギーが湧いてくるような、不思議な踊りである。今までやってきたタップとは少し異なるのだが、
あの抜け感や、ラフさは、少しだけ前の時代のタップの巨匠たちのリラックス感を思い出す。
ラフさが決して欠点ではない。むしろ、その目の粗さやちょっとしたズレの中に、味のようなものが生まれる。
簡単なようで難しい。
足踏みをしながら、自分を鼓舞するようなところもある。
同じ靴を鳴らす踊りでも、タップでは体験したことがないような感覚で、
タップは、少なくとも私にとって、少々感情の伴うものであったが、
やはりシャンノース・ダンスは、ただ淡々と、ひたすらに床を叩いていくうちに、
徐々に、地からエネルギーを受け継いでいくというような踊りなのだ。
まるで地面をたたき起こしているような、そんな印象すら受ける。
夜になれば、ラジオから、昔ながらのシャンノースや伝統音楽が山ほど流れる。
そういえば昔、ラジオを流しながら好きな歌を待ったものである。
テープをセットして待ち、その歌が流れた途端ドキドキしながら録音のスイッチを入れる。
便利は良いものだが、時には気を付けたい。
不便から来る工夫や、「やむを得なさ」から生まれる強い感情。
そういったものが、芸術を豊かにしてきたように思う。
だから時には画面を消し、朝は音だけに耳を傾ける時間を設ける。
朝に聞く、二重奏もなかなか良いものだ。
二重奏も最高潮に達したところで「私に意見を押し付けないでください!」とあるコメンテーター。
切りの良いところで司会者が「途中でごめんなさいね、ここでCMです」と口を挟みバッサリ切ると、
トヨタのCMが始まった。
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