maimaiomaiのブログ

アイルランドと日本の狭間で 言葉を解き、紡ぎなおす者として

「天然」の受け皿

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前々から思っていたことなのだが、「天然」に相当する英語がない。

 

天然とは、天然の魚とか天然の塩という意味の天然ではない。

性格の「天然」のことである。

もちろん、似たような言葉はあるのだが、

どこかエキセントリックな色がついたり、病的な意味が伴うので、

日本語でいう、所謂「ちょっと抜けている」という意味の「天然」に該当する言葉がどうも思いつかないのである(知っている方がいたら、ぜひ教えていただきたい)。

 

私は、どちらかと言えば、天然に分類される人間である。

というか、自分ではあまりそうは思っていないのだが、人に言わせると、どうやら、そうなのだそうだ。確かに、ちょっと抜けているところがあって、その抜けている部分を埋めようとするとノイローゼになるので、もしかすると、そうなのかもしれない。

 

日本の社会で生きる中で私は、この天然をうまく使う術を身に着けてきたように思う。

それは、自分が天然になることで、「周りが笑う、喜ぶ、可愛がられる」、などという、見返りがあったからだと思う。

つまり、天然の受け皿があったということだ。

そして何よりも、日本の「ボケと突っ込み」の文化のおかげで、

私がボケれば、必ず誰かが突っ込み役を担ってくれて、おのずと場が盛り上がった。

 

ところが、私の相方はというと———、初めて相方の前で天然ぶりを発揮した時の相方の冷ややかなまなざしは、今でも忘れられない。

「おやおや?およびでない」とすぐに察知し、作戦を切り替えたのを覚えている。

なるほど、ここには私の天然の居場所はないのか……と、即座にそう理解した。

 

なんというか、自分の最も重宝していた刀をぶんぶん振りかざして、「やぁー!」とやってみたのに、相手はびくともせずに、あぐらをかいてテレビを見ているような、

なんともむなしい体験なのであった。

 

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こちらでは、突っ込んでくださる方もあまりいないので、一人で爆笑をする一方で周りは静寂に包まれるというようなことが多々あるのである。

 

先日、相方の姪っ子さんたちにお会いする機会があり、親戚同士でクリスマス・プレゼントに毎年本を交換し合うというので、本屋で本を選んでいる時に、「料理本とかは?」と言うと、

相方は、「お前は頭がおかしいのか」というような、これまた冷ややかな目で私を見てきたので、

 

「え?だって料理楽しいじゃない。私も料理好きだし」

 

すると即、「アイルランドの女性はそんなんじゃない。そんなの、台所に女性を無理やり閉じ込めているようなもんじゃないか」と言う。

 

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そういわれてみれば、確かにそうだなぁ……とふと考えてしまった。

そもそも、女性=料理本とリンクさせてしまう発想そのものがもう古いのかもしれない。

私は料理ができる女性は大好きだし、家事をてきぱきとこなせる女性にはあこがれるのであるが、それを「女性らしさ」と結びつける時代ではもうないのかもしれない。

 

今でも料理は好きであるし、私の天然ぶりは変わらないとは思うのだが、

面白いことに、この固定観念という名の蓋が取れたことで、その下で抑え込まれていたものが、一気に「わーい!」と飛び出してきた感覚があったのだ。

 

それは、月並みな言葉で表現すれば、「強さ」なのかもしれない。

逞しさ、なのかもしれない。

 

天然の裏に眠っていた、腹の底から湧き出るようなエネルギーである。

その強さが、「え?出てきていいんですか?」とひょっこり顔を出しながら、左右を確認し、穴から恐る恐る出ていこうとしている。

 

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こちらでは、相方に限らず、多くの男性が、こういうものを女性に求めているような気がする。求められると、当然のことながら、出しやすくなる。

がっしりとして、ドーンとして、はっきりとものを口にする女性が多い。

自分を卑下することもない。とにかく「対等」なのである。

それは見ていて大変気持ちがいいものだが、いざ自分がやってみようとすると

物凄いエンジンをかけて100メートル前から助走でもしないと、なかなか届かない。

 

しかし、そんな風にして一生懸命ピョンピョン飛んでいると、

ある日突然、バスの運ちゃんに行先を伝える声が一オクターブ低くなっていたりする。

あまりにも自然なことだったので、その時は気づかないのだが、

ふとバスの椅子に落ち着いた途端、先ほど自分が発した声の低さに驚き、

一人でニヤリとするのだった。

 

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人が社会を作るのか、社会が人を形成するのか。

 

もちろん、日本人女性も、そういう強さを誰もが持ち合わせていて、あまりあからさまに出さないだけだとは思う(そして、それが日本人女性の魅力)が、

私は、この環境の変化によって、もう一度、その強さがあるのかどうか、

自分の奥底へ手を伸ばし、存在を確かめる必要があったのだ。

あまりにも長い間、天然キャラの裏に隠れ、倉庫の奥の奥に眠って、埃をかぶっているような状態だったからである。

 

なぜ、人はものを手放すのか。わざわざ「ある」から「ない」場所へ移動するのか。

敢えて、零に戻りたくなるのか。

 

それはやはり、あったものがなくなることで、見えるものがあるからだと思う。

失うことで、自分の中の、触れていなかった何かに触れざるを得なくなる。

そうやって新たな自分を開拓していくなかで、少しずつ強くなり、

可能性を自ら広げていくのだと、思う。

 

さてさて、これから英語で一人突っ込みの練習でもするか。

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