肉屋に行くと——というより、酒店も八百屋さんもそうなのだが——たいてい一回につき1人か2人しか店内に入ることができない。
そのほかの人たちは、外の歩道で2メートルの間隔をあけながら列を成す。
先日、いつものように肉屋の前で並んでいると、歩道の柱に子犬二匹が紐で繋げられていた。
肉屋の店内に入った飼い主を待っているようだ。
そのうちの一匹の子犬が、激しく小刻みに震えながら店内を寂しそうに見つめている。ちょうどその時小雨が降りだし、気温も下がってきたので、私は、その震え方からしておのずと「寒いのではないか」と想像したのだが、それに対して相方は、「単に感情的になっているだけだ」と言った。
しばらくして、飼い主が戻ってくると、相方の言う通り、子犬は、ものすごい勢いで飼い主に飛びつき、抑え込んでいたものを吐き出すかのように、まるで嗚咽のような鳴き声を放った。そして、あの小刻みな震えはなくなっていた。
「本当だね」と、負けを認めるように相方に言った。そして、さらに、「なんで分かったの?」と聞くと、「前にも、ああいう犬を何度も見たことがあるからね」と答えた。
不思議と、通り過ぎる人達ほぼみんな、この犬に対して優しいまなざしを向ける。
やはり、このように無防備で、弱みを露にする者は「可愛い」と人の目に映って、思わず守ってあげたくなるのかもしれない。
現実にもいるなぁ…こういう人と、ふと思いながら、気が狂ったように、飼い主に向かってピョンピョンと跳ね続けるその犬を呆然と眺めていた。一方、もう一匹の犬は酷く冷静である。
「あんたはいろいろと損だね」と、そのやたらに冷静な犬に対して思うのだった。
そんな中、ある日、家の郵便ポストにとあるチラシが入っていた。
見ると、「〇〇通り、交流会」と書かれている。
ソーシャルディスタンスを保ちながら、ご近所さんの交流会を行うという。
自分で自分のお酒やお菓子を持ち寄って、間隔を保ちながら、ご近所同士でおしゃべりをするのだとか。
こんな時こそ、ご近所同士の助け合いが必要だから、これは良い機会だなぁと思いつつも、いざ当日になると、びっくりするほど私の足がすくんでしまった。
私はパーティーの類が、実は大嫌いである。
お互い顔見知りで、なおかつ何かしらの目的がはっきりしたものであれば良いのだが、
見知らぬ人が集まって(何人かは知っているものの)、ランダムに人に話しかけるという類のものが本当に苦手なのである。
例えるならば、水着も着ないまま底に足の届かない深い海の中へ放り込まれるような感覚なのだ。
昔からそうで、入学式でも、家にお客様がやってくる時でも、
私はよく小さい頃、母親にしがみつくか、姉の後ろに隠れるか、トイレの中に閉じこもるかのどれかであった。そういう卑怯なところがあった。
そんなものだから、見知らぬ人たちの集いにお菓子を持ち寄るなんて、とんでもない話なのである。
今でさえ慣れてきて、家族や一部の人達だけに対しては、自分の手作りの料理をふるまえるようになったものの、昔は全くそうではなかった。
かつて、持ち寄りパーティーに誘われたことがあった。前夜に食材を買い込み、お酒を飲みながらいろいろと作るのだが、全く味に納得いかず、次から次へと料理を作るうちに、お酒で味が全く分からなくなり、朝の5時くらいまでかかったうえ、次の日、二日酔いで、結局その持ち寄りパーティーには行けなかったという経験がある。
お菓子持ち寄り……という言葉が頭の中で惑星のようにぐるぐると回る。
私はお菓子に全粒粉を使用しているが、きっとご近所さんは普通の薄力粉を好むに違いない、このパンデミックの最中、一体どうやってお菓子を配れと言うのか———などと余計なことが頭の中をぐるぐると回るあいだに、とうとうその交流会の時間が来てしまった。
チラりと窓の外を見ると、チラホラと人が外に出てきて、女性たちが嬉しそうに、間隔を空けながらテーブルや椅子を並べている。とても良い天気だ。
相方は、そんな光景を見て、ビールを片手に持ち、買ってあったカップケーキをお皿に並べて、
「こういうの苦手だけど、義務だからね」
とさっさと一人で出て行ってしまった。
取り残された私は、どうも腰が上がらない。
錨のような重みを下半身に感じながら、自分と葛藤しているうちに1時間、2時間と、時間が経過してしまった。どうしてもその日は、足が底につかない海では泳げる気がしなかった。
そして、ふとあの震える犬のことを思い出す。
ああ、私の中にもああいう「震え」があるのだなぁと改めて思うのだった。
そうして、相方が戻ってくると、私の「震え」はあっけなく止まるのである。情けない話であるが、少しずつ、強くなって、慣れていかなければならない。
結局、私は外に出ていかなかったのだが、
この交流会を機に、ご近所同士が近づいたそうで、Whattsappのご近所チャットグループもできたそうだ。相方も、2メートルの間隔を保ちながら会話をするのは変な感じではあったそうで、演劇の話をしても、みんな水槽の中の魚のような顔をして聞いていたとのことだが、ご近所さんとの距離が縮まったことを喜んでいた。
私の代わりに、相方が出て行ってくれたことを心から感謝する。
次はビンゴ大会をするらしい。
ビンゴという明確な目的があるのだし、手作りのお菓子を持ち寄る必要もなさそうなので、今度こそは勇気を振り絞って参加したい。
5月中旬から、少しずつ段階を経てロックダウンの規制が解除される。
やっと70歳以上も心置きなく外に出られるようになった。
思えば、実に2か月のロックダウンであったので、やはり感慨深いものがある。
8月中旬には、ガイドラインに従って劇場も開く予定である。
ヨーロッパのどの国よりもいちはやくリハーサルを再開するというオーストリアでは、
劇場向けの緻密なガイドラインが設定されたようだ。
あまりにもそのガイドラインが細かいものだから、演出家たちは、
「このガイドラインを書いた人はきっと一度も芝居を観たことがないのだろう」と言って、不満を漏らしているのだとか。
5月の頭に数日間、現在は閉鎖中の国立劇場のアベイ座が「Dear Ireland」という企画をYou Tubeで無料で配信した。50名の作家と50名の俳優のコラボ企画で、書下ろし新作の50種類のモノローグが発表された。すべてに共通するテーマはまさにこのロックダウンだが、それぞれの異なる視点から描き、ところどころにDear Ireland (拝啓、アイルランド様)というキーワードが織り込まれる。
国に対する切実な訴えでもあれば、郷愁あふれるラブレターでもある。
詩、散文、ビデオレター、エッセイ、心の声、インスタライブ、上質なモノローグ、手話を交えた身体表現——。
この一つのロックダウンという現象が、万華鏡のように次元がじわじわと広がり、とても見応えがあって、夢中で数日間見続けた。人々の今の「声」が、無数の角度から解き放たれ、ある意味、カタルシスのようでもあった。
あれほどにも、人間が足を止めたことなど最近あっただろうか。
このような深い内観の時を経て、さらに素晴らしい作品が世に出てくることを楽しみに——。
異国での新生活が始まった矢先に起きたロックダウンだった。
拝啓、アイルランド様、
改めまして、はじめまして。そして、どうぞよろしくお願いいたします。
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