「結婚式は、一生に一度ですから!」
異様に熱心な声と真剣なまなざしで、その婚姻手続き担当の若い女性は真向かいに座る私たちに言った。
「おや、ここはウェディングプランナーの事務所だったけな……」と一瞬変な錯覚に陥ったのだが、いや、間違いなくここは、いわゆる結婚詐欺を防止するために行わなければならない面接のための会場である。
つまり、彼女は公務員のはず。
国際結婚の場合、三か月前に通知を行い、通知面接をし、結婚数日前に、これが偽装結婚でないことを証明するために個々で面接を受けなければならない。すべての書類がそろい、しかもその面接に通過し、はじめて結婚できる。そして、その後、さらに移民局で滞在許可を得るという流れだ。
「面接官が一切目を見てくれなくて心が折れた」、などと色んな噂を聞いていたので、私と相方は、「それなりに収入を得ている人間」風の恰好をして、がちがちになりながら会場へ向かったのだが、
我々を迎えたのは、非常に愛嬌のある、私よりも若そうな終始笑顔の女性だった。
「日本の桜、いつか見たいのよね」と彼女は嬉しそうに開口一番に言った。
新郎新婦が別々に面接をし、主に二人の関係に関する質問をされる。
ようは、二人の回答がほぼ一致すれば良いという話なのだと思う。
最初に相方がガチガチのまま出陣したのだが、俳優で、もともと声が大きい相方は、
緊張のせいで、いつもの大きい声にさらに力が入り、
面接が始まった途端、私が待機していた廊下に相方の声が響き渡った……。
なんだかすべて丸聞こえなので、ズルをしているような気がした私は、
そそくさと席を変えて、なるべく相方の声が聞こえない場所へと静かに移動する。
10分ほどすると、先ほどの緊張が嘘のように、満面の笑顔で、ハツラツとした相方が部屋から出てきた。
次に私の番になり、いくつかの質問を淡々と答えたあと、面接官の女性が突然深刻な顔をして、
「次の質問は、ちょっといじわるな質問なの……」と言うので、急に身体に緊張が走る。
「この結婚で、誰かからお金を貰ったりした?」
私は、一瞬、ご祝儀のことかと思い、
「実は……日本では、ご祝儀という習慣があって、近所のおばさまや叔母から……」
と話し始めると、面接官は、「あ、そういう意味じゃなくて……」と遮った。
よくよく聞くと、なるほど、人身売買というか強制結婚のようなもののことを言っていたのである。
そんなこんなで、面接は無事に、あっけなく終わった。
女性は終わった後に私たち二人を迎えると、
「こんなにお互いのことを知ってるカップルは初めてだわ!ほぼ百点満点よ!」と嬉しそうに言った。
カップルによっては、面接を通して、
最近壁紙を変えたのに夫の方が気づいていない、
妻の趣味を夫が全く知らなかった、などといった事実が露わになったりするそうだ。
男女の心理の違いが表れているようで、とても興味深い。
それから彼女は、結婚式当日の流れを丁寧に説明してくれたのだが、
ここで、冒頭の情熱的な台詞に戻る。
アイルランドでは、結婚する場合、大きかれ小さかれ、とにかく「式」を挙げなければならない。
書類を提出するだけでなく、
どの宗教であれ、ようは、人前で「誓う」という行為を行わなければ入籍することができない。
私たちのような市役所婚は、一カップルにつき与えられる時間は30分である。
どれだけ盛り上がっていようと、30分を過ぎれば、会場の担当者に普通に追い出されてしまう。
その限られた時間の中で、いかに自分たちの個性を出すかというのが重要なのだそうだ。
ただの「お役所仕事」にとどまらない彼女の熱意に、とても感動した。
私たちはあまりにも緊張して、ほとんど式中の言動を覚えていないのだが
(あとで親戚が贈ってくれた映像を見て初めて知るというようなレベル)
人前で誓うという行為の重要性が、今回の式を通して、
なんとなくわかったような気がした。
基本的に、婿側と嫁側に一人ずつ証人がいれば結婚式は成立する。
もともとは、それくらい地味なものにする予定だったのだが、親も来ることになり、
さらには、姉家族も来ることになって、日に日に予定がどんどん変化し、
それに伴い我々も、式について、「私たちらしさ」について、真剣に考えるようになっていった。
こちらには「リーディング」というものがあり、葬式でも必ず「リーディング」が入る。
誰かが登壇し、聖書や本の一部を朗読するというものだ。
葬式ならば、亡くなった方を連想するような文章を喪主などが選択し、指名された人間が読みあげるのだが、
結婚式でも同じで、任意ではあるのだが、目次の中に、「リーディング」が数か所入っていた。
さて、では何を読もうかと考えたときに、
我々の出逢いのきっかけでもあったサミュエル・ベケットは、あまりにもブラックなことしか言わないし、
二人して好きな精神学者エリック・フロムは哲学的すぎる。
一般的に結婚式でよく使用される文章は、私たちにはセンチメンタルすぎて、
これっぽっちも共感できない―――、という具合に、一日中頭をフル回転しながら考えた末にたどり着いた詩が、茨木のり子の「歳月」であった。
茨木のり子の詩集「歳月」は、彼女がずっと書き溜めていた詩を、
死後に出版したものである。生前は、誰にどれだけ頼まれても一切人に見せず、
死んだら出版するようにと自分の甥に託したそうだ。
主に、先立たれた最愛の夫について書いたものが多く、他の詩に比べて赤裸々で私的なものが多い。
「どちらかがボケる」だの、「お互いの首を絞める」だのと、少々ブラックではあるし、
結婚式らしくはないものの、静かな愛が裏にひっそりと流れていて、
それこそ、私たちの状況にピッタリだと、
即座にこれに決めたのだった。
今回改めて思ったのだが、儀式というものは良いものだ。
あまりにも非日常的で浮かれたものは個人的に好まないのだが、
あくまでも日常の延長にある厳かなものは、とても良いものだと思う。
日常を一瞬だけおいとまして、シーンとした静かなところへ踏み入れるというような。
そうして、また日常に戻った時に、特に景色が変わるということもないのだが、
少しだけ、足元が固くなったような、
より前を向いて歩けるような、そういう不思議な感覚を体験したのだった。
朝から、アイルランドでは珍しいほどの雲一つない晴天に恵まれた。
大地に欠かせない雨を決して毛嫌いしているわけではないのだが、
この日の晴天はやはり嬉しく、
慣れないヒールを履きながらも、ダブリンの街中を一日中歩き回りたい衝動に駆られた。
「進め、進め、恐れるな」と言われているようで、
私は式の後、相方の手を片手で握りしめて、白いブーケをもう片方の手に、
ズンズンと街中を歩いたのだった。
本物の贅沢とは何だろう。
ようは、満たされるということなのだと思うのだが、
すべての物事の真ん中に、ひっそりと座っているものに関係しているように思う。
これさえ打てば、それを中心に周りに輪が広がっていくものだから
周りを飾り立てる必要もない。
なるべく、飾りは排除して、少々時間はかかっても、
これからは、その核を目指して打っていくというような選択を
していきたいと思ったのだった。
式のあと、式に出席した親戚や友人でこじんまりとレストランで食事をしたのだが、
リングピローを運んでくれた甥が、食事の席で
なにやら夢中に絵を描いている。
そうして、一つの絵を私に渡すと
「けっこんしたから、おうちあげるー」
と、「おうち」の絵をくれたのだった。
結婚=おうちなどという方程式を、いつ学んだのだろうか。
そこまで深く考えたことが無かったのだが、まさしく結婚とは
「おうち」を築くことのように思う。
いつでも帰れる「おうち」、
食事をする「おうち」、
寝る「おうち」、
何があっても、ありのままを受け入れてくれる「おうち」。
私の三歳の甥は、まるで誰よりもそれを分かっているかのように、
その「おうち」を私にくれたのだった。
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