去年の年末に、突然39度の熱が出た。
次の日、ようやく熱が下がったと思いきや、
突然、喉に激しい、焼けるような痛みが走り、
さらには、手足に謎の湿疹が出現し始めた。
手はたいしたことなかったものの、足の裏は、かゆみが酷く、
かゆみが収まると徐々に腫れあがり、私の足は、見たことのないくらい膨れ上がっていた。
喉の痛みで食事は喉を通らず、足の裏がひりひりするので、
ペンギンのようにしか歩けない。
流石に不安になり、ネットでいろいろと検索すると、あらゆる情報が目に飛び込んでくる。
挙句の果てに、「人食い菌」というワードにたどり着き、
数時間のうちに菌が臓器を食べつくす、などという恐ろしい記述を見たものだから、
寝て起きたら脚がなくなっているのではないかと睡眠もままならなかった。
「ああ、私はアイルランドまで来て、このまま謎の菌に侵されて死んでしまうのだろうか……」
と、日本でお世話になった人たちを思い出し、泣きそうになりながらベッドの上で横たわっていた。
しかし、2時、3時になると、足がかゆかろうが痛かろうが気が付いたら眠りこけていた。
そして朝になると、足はまだ痛いものの、足は食べられることなく、確かに私の体にくっついていた。
それでも流石に足が痛いので、保険会社に電話をし、病院の予約をしてもらった。
ピークが、よりによって正月であった。しかも、外国人は救急病棟行きだという。
正月の救急病棟は、さすがに行きたくないので、予約を2日にしてもらった。
待ちに待った2日になると、相方にしがみつき、ペンギンのようにヨタヨタと歩きながら、街の中心にある病院へと向かう。
こちらは、まず個人のGP(ジェネラル・プラクティショナー)という総合医のような人に診てもらうのが普通である。それから必要があれば専門医の紹介状を書いてもらうという流れだ。
基本的な診察は無料だが、個人で保険に入っていない人は、手術や専門的な診察は、かなり待たされることもあるらしく、1-2年待たされるなんてことなどもザラにあり、日本ですぐに診てもらえる環境を初めて有難く感じるのだった。
待合室で待っていると、いろいろな人が出入りする。赤子を連れた母親、一言も交わさないやたら暗いカップル。
そこへ、ある女性が勢いよく入ってくる。
予約を申し込むも、受付の人に今日はもう一杯だと断られてしまうのだが、女性は「呼吸ができないのよ!先生にあれだけお金を払ったのに!」と怒り心頭。彼女の激しい怒りっぷりを見て突然私の体は硬直し、この先生は大丈夫だろうか……と内心不安になっていると、
「ミス・イシカワ」とお声がかかる。
恐る恐る診察室へ入ると、急に南国へ来たような雰囲気で、陽気なおじさまが椅子にゆったりと座ってらっしゃった。
その医者様は、マシンガントークで喋り続けるので、ほとんど私の入る隙がない。
アイルランドには、こういう話が止まらない人が多いのだが(相方含め)、
彼らを見ていると、酷く渋滞しているときに車線変更をするときのことを思い出す(とはいえ、私はペーパードライバー)。
「ここだ!」というタイミングで、狭い隙間に入り込まないと、永遠に自分の意見が述べられないし、質問もできない。車線変更できないまま出口へ出られず、行きたくもない場所へズルズルと引きずり込まれてしまうというようなことが多々あるのである。
お医者様は、句読点のないお経のように永遠にしゃべり続けながら、
私の喉の奥を見て、心臓の音を確認し、手足の湿疹を確認する。
「手足口病じゃないですかね。そして喉の感染は別じゃないかな」とポロリと言う。
「え?手足口病って子供の病気じゃないんですか?」
「そうですよ、でも、大人もなりますよー」
私は得体の知れない恐ろしい菌だというイメージが頭の中で渦巻いていたので、
なんというか、一気に気が抜けてしまった。
可哀そうに。子供たちは、こんなにも辛い思いをしているのか。
それとも、私が痛みに、あるいは痒みに敏感過ぎるのだろうか。
そんなことを思いながら、処方箋を貰ってとぼとぼと病院を後にした。
日本の病院では、抗生物質に加え、胃が荒れるのを抑える薬など、
何かと他にもいろいろ薬を貰うが、
今回の処方箋に書かれているのは、抗生物質一種類のみ。
字数の少ない、なんともシンプルな処方箋に、私はしばらく見とれてしまった。
できれば病気はしたくないが、そのおかげで、生き急いで何センチも上がっていた私の肩が
一センチほど落ちた気がする。
最近、キラキラの方へ、とか、ときめく方へ、などというワードを良く見るが、
負を毛嫌いし、むやみに避けているようで、なんとも違和感を覚える。
私自身、キラキラしすぎている人を見ると、体温が感じられず、どうしても目を逸らしたくなるのである。
舞い上がる陽がある一方で、時に地上で引っ張って方向を示す陰がある。
何より、そういうエネルギーが働いた時にこそ、ふと本来の自分に返れるというようなことがあって、そしてそれは、とても大切なことに思うのだ。
それでも、ついつい人を、しかも自分とはかけ離れた人を、追いかけてしまうことがある。
そんな時は必ずと言っていいほど、肩が1センチも2センチも上がっているように思う。
そして、ふとした隙に相方とかが、「あの人は、君みたいだね」と言う。
その「あの人」に目をやると、まさに個性的そのもので、小柄な体で、まるで天までも突き抜けてしまうほどの力強い声で歌っている。
自分のことはどうしても客観視できないことがあるが、
そういう意外な外部の視点が吹き込まれ、どこか合点がいくと、
「あの人」に不思議な愛着がわいてきて、
肩の力が抜け、自分のままでいいのだと思えてくる。
時には、こうやって立ち止まるのもいい。
良い文章に、あるべきところに句読点があるように、
物語にだって観客が呼吸するための休憩が必要である。
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