「生き残るのは、最も強い生き物でもなければ、最も賢い生き物でもない。
結局は、変化に対応できる者が最後まで生き残るのである」
ダブリン市内の博物館の入り口に書かれていた言葉である。
その博物館には、アイルランドに生息していたと言われる動物が剥製にされた状態でずらりと展示されていた。
かつて生きていたその動物の瞳が、なんとも不気味な視線で私を見つめ返してくる。
アイルランドは、こういった類の美術館なり博物館が、大体無料なので嬉しい。
以前、静岡の富士山のふもとで、湧き水でできた池の中を悠々と泳ぐ魚を見たことがある。
あまりにも透き通った水と、嬉しそうに生き生きと泳ぐその魚を見ながら、
「きっとこの魚は、この池から別の場所に移動させられたら、病んでしまうのだろうな」と
漠然と思ったのを覚えているが、あの魚たちだって、どこか見知らぬ土地の汚染された湖の中に放り投げられたとしても、上手い具合に環境に馴染んでいくのだろうか。
それとも、適応障害に陥って、死んでしまうのだろうか。
日本では花粉症に無縁の私が、先日アイルランドで花粉症らしきものに襲われた。
明らかにウィルスではなく、鼻水が永遠に滝のように流れてくるというもの。「芝生じゃないか?」と相方は言う。芝生の花粉症なんて、あるのだろうか。
そういえば、去年の6月、7月にアイルランドに滞在した際にも、同じような症状に襲われた。
しかし、数日間すれば、ピタリと収まる。これも、身体が何かしらの形で、この環境に適応しようとしているのだろうか。そうだとすれば、身体というのは、なんと優秀なのだろうかと感心する。
昔アメリカに住んでいた頃の自分の写真を見ると、
今と全く違う顔をしているので驚くことがある。
肌の色も色黒であるし、日本に戻ってから一気に色白になったのを覚えている。
そうやって、人間というのは食べるものや環境に合わせて細胞レベルで変化していっているのかもしれない。
数日前のことだが、ある日、鼻水に続き、わけもなく涙が止まらなくなってしまった。
私はよく精神のバランスを崩すのでかなり気を付けているのであるが(太陽を浴びる、踊る、歌う、深呼吸をするなど…)
今回は予想外のタイミングでやってきた。というのも、特に自分が不幸だとも思っていなかったし、もちろん日常の些細なストレスはあるにせよ、自然に触れ、庭の野菜たちに触れ、料理をしながら、仕事もバランスよくやっていたからだ。それに、こちらの夏の気候は、生まれ故郷のカリフォルニアの気候にどこかしら似ていて、安堵感さえ覚えるのだった。
なのに、突然のこの発作のような大量の涙は一体なんなのかと自分でも一瞬混乱してしまった。
この土地と日本を行き来するようになって2年近くが経過した。
観光気分はとっくの昔に通り越し、この国の悪いところも、良いところも、一通り見たような気がする。
合わないなぁと思うことももちろんあれば、良いなぁと思うことも沢山ある。
露骨に階級差を目の当たりにし、移民たちの過酷な状況だって毎日肌で感じ、
彼らの殺伐としたエネルギーにドキリとする。
ドラッグ中毒らしき人もしょっちゅう目の当たりにするし、
永遠に自分の不幸話をしながら虚ろな目で「1€ください」と目の前で通せんぼうされることもよくある(ちなみに一度も断れたことがない)。
涙がにじむような人の温かさに触れる一方で、無知ゆえの人種差別的な体験に心が痛むことだってある。
心臓が止まりそうになるほど大きな声で人が喧嘩している現場も日々目の当たりにするが、蓋を開いてみると、驚くほどの人間味が隠されていることもある。
日本の便利さに甘えていた自分に反省し、日本の繊細さを懐かしく思いながらも、
アイルランドのおおらかさ、大雑把さに癒されることもある。
不便さはあるが、こちらへ来るとゴミの量は半減するし、歩く量も増える。
日本でも心掛けなければならない。
つまり、気が付けば、今まで自分が生きてきた環境とは全く違う要素を
身体は日々浴び続けているということだ。
自分では満足していながらも、身体はどこかで環境の変化についていけず、何かしらのストレスを感じているのかもしれないと、大量の涙を体験して思ったのだった。
しかし、こういう涙というのは、決して悪いことではないことを私は知っている。
演技ワークショップを嫌というほど受けてきた私は、
よくワークショップで周囲がドン引きするほど涙が止まらなくなることだって頻繁にあったからだ。
涙が止まらなくなった後、そのまま鬱状態になるかというと、そうでもない。
その逆で、涙を流した後というのは、自分でも予想していなかった力がどこからともなく湧いてくるというのがいつものパターンであった。
その泣く過程というのは、たいてい、何か過去のトラウマ的なものが邪魔をしていることが多い。
通過するのがあまりにもこわいので、涙が流れるのだ。
つまり、何かを開こうとする過程なのではないだろうかと私は勝手に推測している。
もちろん、自分に限界が来ているということもあるので、
そこはしっかりと見極めなければならない。
しかし案の定、そんなよどんだ期間を経て、物事がゆっくりと流れるようになった。風通しがよくなり、なんとも不思議な出会いが、次から次へと舞い込んできたのである。
久々に、心揺さぶられる戯曲にも出会った。
人間の、最も純粋な部分、善良が描かれている。
情報過多な世の中で、私が探し求めていたものなのかもしれない。
カイコというのは、ある日、何か違和感を感じ、クルクルと頭で円を描き始め、やがて糸を吐き出しながら自分の身体を巻き付けるのだとか。
そうして繭を作った後、一瞬、無の液体になる時期を経て、
サナギに変身するのだという。
私はこの話を聞いた時、なぜだか妙に感動したのを覚えている。
私にも、人生の節目に感じるこの「違和感」は身に覚えがあるし、
自分が変身する前には必ず自らを閉じ込め、不思議な「無」の期間を経るからだ。
そんなこんなで、誕生日を迎えた先日——。
今年は、「開く」年に。身の丈を知り、多くを求めず、しかし、惜しみなく開く。
そういう年にしたいと思う。
異文化に身を置くと、どうしても身体が硬直するものである。
そんな中でも、「開く」努力をし続けていると、
必ず変化が到来する。その積み重ねである。
劇的な環境の変化に身を晒しながらも、
しっかりと根を張りながら、大きな、大きなお花を咲かせたら、嬉しい。
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