アイルランドを代表する劇作家ブライアン・フリールがこよなく愛した街がある。
そこで生まれたわけでもないのに、最後は、この土地で葬られることを強く希望し、自ら葬式の計画を綿密に練っていたのだとか。
ドニゴールから少し内陸に入ったところにある、人口800人ほどの小さな町グレンティーズ。
ブライアン・フリールの多くの劇に登場する架空の街「バリーベグ」はすべて、この街がモデルになっているそうだ。
メイン・ストリートは、たったの一つ。ホテルもたったの一つ。B&Bがいくつかあるが、
スーパーもカフェも、この一本の道に集中し、周りはというと、青々とした芝生で覆われた山肌を、川が網を描くように流れ、その間では、羊や牛やロバが悠々と草を食べている。
アイルランドの戯曲を読んでいるとよく登場するBogという言葉があるのだが、
「沼地」「湿地」と辞書には出てくるけれど、こちらでは、単なる湿った土地というよりは、特別Turf(泥炭)が採れる場所のことを指すことが多いようだ。Turfは、いわば家庭で薪のような役割を果たし、かつては貴重な燃料源であった。香りは非常に独特で、街中を歩いていると突然Turfの香りが漂い、ふと見上げると近くの家の煙突からもくもくと煙が漂い出ている——、というようなことがよくある。
日本人がお線香の香りや蝉の音で故郷を思い出すように、
この香りで故郷を思い出すアイルランド人も多いのではないだろうか。
このBogは酸性が強いらしく、Bogの中で大昔の遺体や服などが綺麗に保存されたまま発掘されることもあるのだそうで、ダブリンの国立の博物館では、Bogの中から掘り出された人や服が展示されている。
このグレンティーズは、そのTurf業でかつて栄えたこともある街だ。
そんな街で、Lughnasa Friel Festivalなるものが開催された。
Arts Over Boardersという団体がこの季節になると毎年開催するのだが、
7月下旬から始まり、最初はエネスキレンという北アイルランドの街でサミュエル・ベケットを特集し、その後は、デリーという、これまた北部の街でオスカー・ワイルドの作品を、そして最後にこのアイルランドの街グレンティーズ周辺でブライアン・フリールの作品を特集するという流れだ。
このようにあちこちで開催されては移動も宿泊も困るではないかと、最初は不満だったのだが、このフェスティバルの意図として、やはり「国境を超える」ということが重要であるそうで、敢えて、北アイルランドとアイルランドの街を交えながら各地で開催しているらしい。
ほとんどの作品は、サイト・スペシフィックと言って、実際にその町にある城跡や、景色、木、海辺(潮の満ち引きの合間など)などを使って上演される、なんとも《ロマンティック》な演劇祭なのだ。
私が見た作品は、ブライアン・フリールの「Faith Healer」という作品だった。
なにやら怪しげな題名だが、内容はそうでもなく、後を引くような複雑で深い作品である。
フェイス・ヒーラー(心霊療法士)、その妻、そのマネージャー(男性)3名のモノローグ(モノローグは4つ)から成る。
一つの物語が三者の視点から語られるので、証言が微妙に異なり、その少々ずれた事実が重なりあう中で、物語の次元が広がり、意外な《真実》のようなものが見えてくる。
日本ではさほど知られていないようだが、こちらではブライアン・フリールの最高傑作にこの作品を挙げる人は多いようだ。
それぞれの人間が淡々と語る事実がとても哀しく、粒のように細かく連なる言葉たちが最終的に描く絵がとても壮大だった。
「プロムナード・リーディング」と言って、観客はバスに乗り込み、地域の小さな市民館、いや、集会所のようなところへ連れていかれ、現地で待機しているそれぞれの役者が、それぞれのモノローグを披露する、というものだった。
4つのモノローグから成る作品なので、私たちは4つの異なる会場へ移動した。
演出家が不在の中、ベテランの俳優たちは、それぞれの解釈でモノローグを読み上げる。
それはそれで大変興味深いのだが、演出家が不在であることで、演出家の役目がはっきりと見えたのは面白い体験だった。
妻を演じた74歳の女優さんDearbhla Molloyさんの演技は圧巻で、リーディングといえど、
一言一句意味が伝わり、身体の動きは最低限に抑えられているのに、心と声は役に寄り添いながらあちこちへと動く。間を恐れず、押し付けるわけでもなく引くわけでもない、そのちょうど真ん中で、観客を一気に惹きつけてしまうあの演技力は、一体どこから来るのだろうか。
本当にごく普通の公民館、いや、集会所だったのだが、一気に作品の世界が繰り広げられるのは、不思議な体験であった。まさに、言葉と役者の力だけで——。
ツアーが終了すると、私の相方の古い友人さんたちと合流することになった。
バカンスで、たまたま近くに滞在されているという。
一度、この作品で主役を演じたことがあるという役者さんが、
「どうだった?あのフェイス・ヒーラーは結局、《詐欺師》だったと思う?」
と聞いてきた。少し考えたのち、
「詐欺師とかというよりは、彼の葛藤が、作家(芸術家)のそれと似ていると思いながら見ていました」と答えると、たいそう嬉しそうに納得していた。
フェイス・ヒーラー。ようは、人の病気や怪我を信仰によって治す人の話である。
「奇跡が起こる時は起き、起きない時は何も起きない」
如何様であろうとなかろうと、そういう奇跡を待ち続ける姿勢は、芸術に携わったことのある人間なら誰もが共感するのではないだろうか。
インスピレーションを待ちながら机の前でペンを握りしめる作家、
ピアノの前で頭を抱える作曲家、ペンキを壁に投げつける画家、
長い稽古を終え、初日に奇跡が起こることをただただ祈る役者——。
世の中には、神業としか思えないような傑作が数々存在する。
その誕生の瞬間というのは、私たち人間の力を超えた何か不思議な力が働いているに違いないと思うことがある。
起きる時は起きて、起きない時は起きない。
そんな単純すぎる方程式の中で、
受け身でいるしかない無防備な葛藤は、とても共感できるものであった。
大変複雑で深いがゆえ、終わった後の酒のアテには持ってこいの作品である。
とても悲しい話なのだが、フリールの珠玉の言葉たちが悲しみから救い出してくれるようなところがある。
何度も、何度も読み返したい作品だ。
ドニゴール地方に位置するこの街は、人が実に人懐っこい。
道ですれ違うと、大人も子供もかならず「ハーイ」とあいさつをしてくる。
ドニゴール地方の訛りは非常に癖があって、ついつい自分にも乗り移ってしまうほどの影響力があった。
このように、時の流れと共に、自ずと土地に馴染んだものというのは、なんと屈託なく、愛おしいものか。
手を触れずに、そっとしておきたくなるような脆さと美しさがある。
それにしても、この国はどこに行っても、じゃがいもである。
あまりにもじゃがじゃがしすぎて、旅の終盤はさすがに胃がもたれてしまい、
家の庭の野菜が恋しくなった。
帰り道、行きでは左側で見ていた風景が、右側へと移動する。
永遠に続く牧歌的な風景を横目に見ながら、ダブリンに近づくにつれ
煉瓦から鉄へ、緑からコンクリートへ、その風景が、徐々に変化していった。
後ろ髪惹かれながらも、現実に引き戻される感覚は不思議な心地よさもある。
前回地方へ旅して帰ってきた時は空き巣に入られていたので、
恐る恐る家のドアを開けたのだが、今回は幸いなことに無事であった。
安堵しながら部屋の中に隠したパソコンを取り出しては、さらに安堵する。
私自身、ちょっとした分岐点に立つ中で、様々な想いが交差する旅だった。
奇跡が起きる時は起き、起きない時は起きない、
そんな気まぐれで厳しい事実を抱きしめながら、これからも頑張ろうと思えたのだった。
Unauthorized copying of images strictly prohibited.