最近、どれだけ忙しくとも、少なくとも一か月に一度ほどは、立ち止まって冷静に、自分が今後どういう方向へ行きたいかを紙に書き出すようにしている。
途方もない夢というよりは、本当にささやかな願いのようなものをつらつらと書き出す。
自分の声というのは、人生の雑音に飲み込まれていとも簡単に聞こえなくなってしまうものだからこそ、こういう時間を大切にしている。
例えば、私は2年ほど前に、こんなことを書いていた。
「都会でもない、田舎でもない、すぐに自然に触れられるようなところに住みたい」
あの時、私は「ダブリン」のダの字でさえ頭になかった。
ただ漠然と、「こういうとこで生活したい」という強いイメージが頭にあったのだけど、驚くことに、ダブリンというのは(というかアイルランドのほとんどの街がそう)まさに、「都会すぎず田舎すぎず、自然がすぐそこにある」街なのである。
柵(しがらみ)からはできるだけ逃れ、しかし自分の創造力は捨てずに、少々踊り、唄い、大好きな料理をしながら、言葉に囲まれて、大切な人と一緒に——。
読み上げるとなんとも我が儘なものに聞こえるけれど、アイルランドと日本を行ったり来たりしながら、今まさに、こういう人生を歩ませていただいているような気がする。
つまり、2年前に何気なく書き出した願いが、知らぬ間に少しばかり叶っていたということだ。
自分が自ずと導かれる道というのは、なんと興味深く、予想外なのだろう。
川の水に削られる岩の模様などを見ていても思うことだが、自然というのは随分と創造力に長けていて、私をこれでもかというくらいに驚かせるものだから、ある程度の努力をしたら、あとは「彼ら」に任せるようにしている今日この頃。このような態度が一番なのだと、最近は思うようになってきた。
努力は必要だが、時に気を付けなればならない。それが「力み」となることもある。
そして、この「力み」というのは、どうやら、あまり良いものではないらしい。
そこに本来あるべき流れを、自ら止めてしまう。
アイルランドにいると、翻訳という非常に根詰める作業をしていても、まるで原宿に行くような感覚で大自然に触れることができるから、どこか追い込まれずに済むところがある。
ついこの間、大量の仕事を終えて、バスに乗って相方とダブリンのHowthという街の崖周りを散策し、大自然を眺めながら、「そういえば、これは無料なのだな」と妙に感動してしまったのだった。
東京のような都会にいると、自然を楽しむことが贅沢すぎて、ついつい「自然」に、お金を払わなければならないような気さえしてくる。
数年前、「ドストエフスキーと愛に生きる」というドキュメンタリー映画を観たことがある。
生涯ドストエフスキーのドイツ語翻訳に捧げた、キエフ出身の翻訳家を追ったドキュメンタリーだ。
ゆったりとした時の流れの中で、美味しい料理をつくり、真摯に毎日言葉と向き合う彼女は、この上なく美しかった。
彼女から丁寧に選び出される言葉たちは、インタビューの時でさえも、一粒一粒の輪郭がしっかりとしていて、深く胸に突き刺さった。
いつからか、そんな彼女のイメージを、追いかけるようになっていた。
2年前に書き出した願いは、どこか彼女に重ね合わせている部分があるのかもしれない。
彼女の好きな言葉がある。「翻訳する時は、鼻を上げなさい」というもの。
「全体を愛せなければ、ひとつひとつを理解できない」
一字一句追うのではない。全体を愛し、心に取り入れたら、あとは、上を向いて訳す。
今でもそれは、心掛けていることだ。
4月末に上演される戯曲の稽古を見ながら、役者の声として放たれる、自分が翻訳した言葉たちに耳を傾け、不思議な想いでいる。
とうとうその時が来たのか、と感慨深い。
なにせ一度は本公演を諦めかけた戯曲なのだから。
ある人にとっては、苦手な分野かもしれないが、私にとっては、何度聞いても、何度読んでも、心にひっかかるものがある。
大変、際どい内容を力づくで訴えるものではなく、あくまでも詩的な言葉で淡々とつづる。そこがいい。
人生は優しい。
そう思えることが幸せだと思える今日この頃です。 「Necessary Targets ボスニアに咲く花」 イヴ・エンスラー 作 4/24〜4/30まで オメガ東京 https://www.facebook.com/events/2265700126994433/?ti=icl 告知映像 https://youtu.be/C03Ca7aC1Ew
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