maimaiomaiのブログ

アイルランドと日本の狭間で 言葉を解き、紡ぎなおす者として

不完全

その昔、人の字で人を評価する癖があった。

手書きで手紙を書くことが少なくなってからは、そんな癖も、癖ではなくなりつつある。仕事柄、人を分析する習慣はけっして悪いことではないと思うのだが、アイルランドへ来てから、人の部屋の汚さや綺麗さ、人の字で人を評価すること自体、恥ずかしいと思うようになった。

そもそも、私は夫の字が読めない。本人も、自分で自分の字が読めないとよく嘆いている。私は夫に出会ってから、字の綺麗さで人を判断する癖を丸ごと捨てたのであった。

 

先日、ディングルへ旅行した時、地元のとある女性が、わざわざ休みの日に車でしか行けない村の見どころをドライブしてくれた。けっして悠々自適な生活を送っているわけではないのに、頭が下がる思いだった。彼女は運転しながら、あそこは~家、あそこの家の人は~と指さしながら得意げに説明する。村の住人全員と顔見知りのようだった。

年がら年中吹き荒れる西風は、しつこい蚊のように耳にまとわりつく。石造りの壁によりかかると、一瞬だけ風の音が遠くなって安堵した。髪の毛がくちゃくちゃになりながら、足腰を使い、風に抗ってひたすら前を向いて崖の上を歩いていると、地元の人たちの逞しさ、腹に落ちた声、キビキビとした身体が妙に腑に落ちた。

最近見たマーティン・マクドナーの話題作「イニシェリン島の精霊(The Banshees of Inisherin )」もこのような環境が舞台だった。毎日同じ人と顔を合わせ、毎晩同じパブで飲み語らい、真新しい情報には魚のように食いつき、噂なんぞ一日で一気に村中を駆け巡る。あの、一瞬も止まない風。あの村の閉そく感。村の閉そく感が産みだす悲劇を描いた作品が昔からとても好きなのだが、この土地からそんな物語が沸いてくるかのようだった。

村を案内してくれた彼女は、片づけができない人だった。

 

しかし、世話好きな彼女には、私には皆無とも思える、おっきなハートがあった。それは、彼女だけではない。こちらの人に多くみられる傾向である。戦争がはじまってから、ウクライナ人の戦争難民を家に受け入れる人の多さに驚いている。近所の一人暮らしの女性も、自分の部屋をウクライナ人女性に貸し出している。先日ラジオで、難民に家の一室を貸し出して、里帰りした息子の部屋がなくなって、息子は今ソファーで寝ているわ、とゲラゲラ笑いながら話す女性がいた。

しかし、一方で、住宅危機が深刻化し、アイルランド市民のホームレスの数が増えているのも事実。一筋縄ではいかない問題ではある。

 

境界線を越えたときに気付くことの多さ。境界線は、豊かで、しんとした深い井戸のような場所。居心地のいい場所に座り込むのではなく、境界線を跨いで、後ろを振り返りながら、自分の小ささに思わず苦笑いする。その繰り返し。

 

視覚ばかりに囚われて、見た目の完璧さを気にして、心を置いてけぼりにしていないか。常にバックミラーを確認しながら前に進みたい。

不完全さを受け入れつつ、周りに助けられながら自身の執筆含め、創作を淡々と続けている。

12月に、翻訳した作品二本が上演される。

 

『ダブリンの演劇人』は、演劇を讃えたいという一つの想いから生まれた演劇賛歌。アイルランドの各主要紙で5つ星を獲得した話題作。コメディア・デラルテとストーリーシアターを融合させた、外連味のある作品だ。和田啓さんのパーカッションとパワフルな女優たちが出会う。今こそ、高らかに演劇を讃えてみたい。

 

『橋の上のワルツ』は、バスの運転手、男、女、三役の台詞が、時には激しく、時には優しく絡み合い、詩的なワルツに展開していく「物語り」。出自の異なる三人の俳優たちの素敵なトライアングル。英国作家組合賞Best Playにノミネートされた作品でもある。能力主義に翻弄される世の中で、ただただ生活のために、家族のために、粛々と仕事をする運転手の姿が心に沁みる。

 

是非。

「ダブリンの演劇人」

:マイケル・ウェスト in collaboration with The Corn Exchange

12月6日-12月11日 新宿シアターブラッツ

https://www.ova9actress.com/next-stage

 

「橋の上のワルツ」

作:ソニア・ケリー

12月21日―25日 オメガ東京

(レディ・グレゴリーの短編作品と二本立て)

https://itij2022.com/?fbclid=IwAR1j1VIiSxHn2_HO7lZUlgUr9-ErEL4W5AG4Lg9217p38ZzmXNP0tcnG96c