maimaiomaiのブログ

アイルランドと日本の狭間で 言葉を解き、紡ぎなおす者として

果てしない、果てしない

 

小鳥は、なんの前触れもなく突如姿を消すことがある。

鳥で賑やかだった空間は静寂に包まれ、何か悪いことをしたのだろうかと罪悪感に襲われるのだが、その後まもなくして、何事もなかったようにワラワラと戻ってきて、やがて雛たちの声で賑やかになる。

人生にも似たような空白の時間があって、旅の途中、突然あたりがしいんとなることがある。あまりの静けさに不安に襲われて、もとの道へ引き戻したくなるのだが、その後に、嬉しい出来事がポンと舞い降りる。

静かだと、ついつい不安に駆られるのだが、いつも、この静かな空白が訪れたとき、恐れずに淡々と歩き続けるのだと自分に言い聞かせる。

先日、嬉しいニュースを受け取った。最近あたりが妙に静かで不安だったのだが、この道で間違っていなかったと確信した瞬間であった。

先日、アースデー日に、いくつもの劇団や劇場が、地球のためにいかに頑張っているかということをアピールする投稿が目立った。例えば、国立劇場のアベイ座は、約90枚のソーラーパネルを設置するという。サステイナブルな創作を目指す傾向がしっかりと感じられる。

そういえば、ゴミ拾いをはじめて約3か月が経つ。いちいち数えてはいないが、路上に落ちているゴミの量は凄まじく、夫と合わせると、今まで合計大袋40袋のゴミは拾っているのではないかと思う。大きな海原をドンブラコどんぶらこと渡っているような気分で、拾えども、拾えども、ゴミは増えるばかり。果てしない。

こうやって増え続けるゴミを見ていると、人間の愚かさが鏡のように跳ね返ってきて、謙虚な気持ちになるのだから不思議だ。

生垣の中にボトルや紙コップが押し込まれていたり、何かの後ろに、ゴミが大量に隠れていたり、とりあえず、捨てる行為を隠そうとはしている――つまり、それを恥ずかしいと思っているらしいのだが、拾う側としてはかえって人間の卑しさのようなものを拾ってしまって、思わず眉間に皺が寄る。

ドラッグ常用者の針や、ヘロインを吸い込むためのアルミホイルなど、目立たない一角には、そういったものも山積みになって捨てられている。霊感などまったくない私でも、負のエネルギーのようなものを猛烈に感じて、水の中に飛び込むかのごとく、息を止めてしまう。

面白いことに、人は、ゴミが集まったところにゴミを捨てる。誰かが捨てると、人は便乗し、瞬く間にある道の一角が掃きだめと化す。

ゴミ捨てがひどかった近所の地域の住人たちが立ち上がり、掃きだめとなっていた街の各所に植物を植えるようになった。それでも、綺麗な花を植えた場所に、また人がゴミを捨てる。そして、また人がそれを拾う。その繰り返し。ほんとうに、果てしない。

春になって、青々とした植物たちは、夏に向けてどんどん背を伸ばしていくごとに、「親切」に、人間が捨てたゴミを隠していく。目の前の花の美しさよりも、根元に怠惰に眠っているゴミが気になってしまうのは、「ネガティブ思考」なのだろうか。

今、小鳥たちの世界では、壮絶な命の循環が繰り広げられている。

大型の鳥たちや猫やキツネは、常に無防備なひな鳥を狙っている。庭のコマドリは、その被害に遭ってしまったようで、急に勢いが衰え、喪に服すかのように静かになった時期があった。

しかし、そうやって子供を失っても、彼らはまた一から巣を作り直す。雨の日も日照りの日も、必死に虫をかき集めていた姿を観ていた身としてはとても心が痛むが、あっさりとまたあの果てしない旅に繰り出す彼らを見て、私も頑張ろうと思えるのである。

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