Irish Writers’ Centreのライティング・グループに参加したときのこと。
こちらには、書く人たちによる任意の集まりが、いくつもある。そうやって、お互いに書いたものをシェアし、切磋琢磨する。
このグループは国際色豊かで、ウクライナ、ベラルーシ、ロシア出身の女性がいた。
ある日、ロシア出身の若い女性が、ウクライナ出身の女性にどこ出身かとメンバーに聞かれ、少し戸惑いながらも小さな声で、「ロシアから来ました」と答えた。
一瞬、場がしんとしたのだが、ベラルーシ出身の女性がすぐに手を差し伸べ、
「私は、ベラルーシ出身で、私もロシア語を話すのよ。一緒ね」
と言った。彼女の一声で、場が一気に緩む。
私は、こういうさりげない気づかいができる女性が大好きだ。人生の痛みを知っているからこそ自然に湧き出る優しさ。
その人の書く文章は、飾らない、心のある文章だった。
どこにも力みがない。無駄なものを、どこかに脱ぎ捨ててきたかのように、ただポンと存在する。こういう人は、一緒にいて心地がいい。
先日から、ゴミ拾いにハマってしまった私は、さっそく近所の方からゴミ拾い道具をいただき、相方と一緒にゴミ拾いの旅に繰り出した。
ポイ捨ての多さは相変わらずで、1時間ちょっとで、大のゴミ袋3個分一杯になった。
ゴミ拾いをしていると、通りすがりの見知らぬ人が、静かに笑顔を向けてくれたり、「Fair play to ya!」(賞賛の掛け声)などと声をかけてくれるのが心地いい。
あるリュックを背負った男の子が、私たちがゴミ拾いをするのを不思議そうにじっと見ていた。きっと学校帰りなのだろう。私たちが何のためにゴミを拾っているのか、私たちが何者なのか、理解ができないようだった。とにかく、不思議そうな目で私たちを見ていた。私たちを通り過ぎた後も、振り返って、私をじっと見つめた。
彼が何を見たのかは分からないが、無言の会話を交わしたような気がした。
それは、とても心地よい会話だった。
あまり、自分を誇らしく思ったことがない。
しかし、ゴミ拾いをしていると、少しでも役に立てているように思えて、少しだけ、自分のことが好きになれる。
春が近い。毎年必ず来る春なのに、アイルランドの長い冬を経験すると、もう春なんて来ないのではないかと疑ってしまう。
しかし、確実に春は来る。去年植えた水仙が、ひょっこりと頭を出す。コマドリたちが、恋歌を交わす。
そんな春の気配を感じた日、
去年描いた絵を、チャリティーショップで購入した3€の額縁に入れた。
端が少し欠けているのがいい。
執筆しながら壁にぶち当たると、絵を描いてみる。
言葉を尽くし、言葉をなくす。
無言の中は、時に豊かである。
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