リサ・オニールという歌手がいる。
ラジオから彼女の歌が流れれば、一瞬で耳が反応する。伝統の歌や自身のオリジナル曲を歌うことが多いが、あのトム・ウェイツの曲でさえも、たちまち自分のものに塗り替えてしまうほどの独特の個性の持ち主なのだ。私はこういう独自の世界観を持った女性が好きである。世間に流されず、ある程度の「孤」を耐えてきた形跡がうかがえるからなのかもしれない。
リサ・オニールは「Song of Granite」というアイルランド映画にも出演している。コネマラ出身の実在のシャンノース歌手ジョー・ヒーニーの生涯を、役者の演技、コネマラの田舎の美しい映像や実際のヒーニーの映像を交えて描いた白黒のドキュメンタリー・ドラマだ。
アイルランドの田舎からスコットランドへ移住し、さらには妻子を捨て、米国に渡った孤高の歌手を淡々と描く。アイルランドの地に密接につながった歌を、ニューヨークの大都会でドアマンとして働きながら歌い続けるというジレンマ。米国で求められる実体のない商業的な「アイルランドらしさ」。どこにも属しきれない孤独が、映像の隅っこに終始、静かに流れ続けた。
人の孤独を、同情を一切排除し、ただ淡々と客観的に描いた映画が好きである。孤独はネガティブなものに受け取られがちであるが、私はいつもこういう映画を故郷に帰るような気持ちで見ている。人間はみなひとりであるという単純なメッセージが、人間賛歌のように心地よく鳴り響くからかもしれない。
コロナ禍で人と接するありがたさを実感したとよく言うが(もちろんそれはそうなのだが)、私は個であること、「孤」であることの大切さを改めて学び、逆に世界が広がったように思う。
コロナ禍に、鳥の世界に夢中である。小柄なミソサザイは、猫に立ち向かうほど強気な鳥。身体が小さいのに、歌声は力強く耳に突き刺さる。そんな性格は、民話でも言い伝えられている。ミソサザイは「鳥の王様」と言われているのだが、鳥たちの間で「誰が一番空を高く飛べるか大会」が行われた際、ミソサザイは鷲の羽の中に隠れ、あと少しでゴールというところで羽から飛び出し、無理やり一位を獲得したという伝説がある。
そういうずる賢さも納得だ。歌う時は誰よりも大きな声で歌って人の注意を引くが、そうでないときは誰にもばれないように生垣の中を何食わぬ顔をして無言で移動する憎いやつなのだ。
「人生、こういうずる賢さも大事なのよ」、と説教されているようで、思わず笑いがこみあげてくる。
そんな民話を勝手に押し付けられて、鳥からしたら「名誉棄損」でしかないかもないが、代々語り継がれている民話には、それぞれの動物の個性が生き生きと反映されている。かつて、アイルランド人は「迷信や妖精を信じるおかしな人達」と言われ、このストーリーテリング(口頭伝承)の文化が政治的に利用されたこともあった。迷信によって理不尽な扱いを受けたことで民話や迷信を否定した時期もあった。一方で、この文化を守ろうと必死に語り継ぐ人たちもいる。
しかし民話は、動植物と私たち人間の架け橋を担ってくれているように感じられてならない。そんな物語を聞くだけで、一気に彼らとの距離がぎゅぎゅっと縮まるように思うからだ。ただ科学的事実を知るよりも趣がある。
民話は、かつて「孤」をしっかりと受け入れて生きていた人間の良い「お供」だったのではないかと想像する。
ロックダウンが始まって以来、在宅の仕事しかしておらず、相方や近所の方以外、人と対面することがない。そんな中、仕事相手との、仕事とは関係のない、なんでもないやり取りに癒されることがある。
「日本ではやっと桜が咲きました」
人間らしさがふとこぼれた時に、ぎゅっと距離が縮まるらしい。
人と対面しないからこそ、そういう隙間は空けておきたい。
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