かつて、毎日ダブリンの中心街オコンネル・ストリートのど真ん中に立って歌う女性がいたと言う。
2014年に惜しくも亡くなられたそうだが、
それまで彼女はほぼ毎日街頭に立ち、歌い続けたそうだ。
そして、その原因は分からないが、声を失ってしまった後も、
手振り身振りを使って、口パクで歌い続けたのだそう。
その原動力は一体どこから来るのかと、私は瞬く間に彼女に興味を持ったのだった。
面白いのは、彼女のことについて話す時に、
「彼女は心を病んでいた」と言う人もいれば、
「いや、ごく普通の女性だった」と言う人もいて、
意見が見事に分かれる点である。
「病む」とは一体何を言うのだろうか。そして、「普通」とはなんであろう。
人生には、一つの姿が、二つ、三つへと分離するようなことがある。
私は、こういった現象に昔から特別興味があった。
今の、一見コロナ一色に見える世の中も、
二つ、三つへと姿を分離させているように思う。
これほどにも、春の到来の軌跡を繊細になぞったことはいまだかつてなかったかもしれない。
徐々に日が長くなって、空気の匂いが変化し、
空は少し陰りのあった淡い青から、より鮮明な青へと変化し、
庭に当たる太陽の面積が広がり、
数か月間背丈を変えずにびくともしなかったケールに、
少しずつ動きがみられるようになった。
ボタニカルガーデンに住み着くリスの足取りが少々活発になり、
街中に咲き乱れるスイセンたちが、ミルミルと公園を支配していく。
自然界の中に、前へ前へと進む力がこれほどにも感じられる一方で、
街はおどろくほど停滞している。
カフェもパブもレストランも締まり、学校も幼稚園も保育園も閉鎖し、ダンスレッスンも集会も何もかも中止。
劇場はすべてシャットダウン。セントパトリックデーのイベントも見事に一つ残らず、すべてキャンセルになった。
愛蘭には、あらゆる場面で、こういう潔さがみられる。
そして、この2つの相反する力を身近で感じながら、不思議な日々を過ごしている。
有難いことに在宅仕事なので、仕事にはさほど影響はないのだが、
行動範囲が狭まることで、スーパーへの買い物が大遠征のように感じられ、カフェが閉店したことによりマフィンの作り方を学び、キッチンで踊り続けることで、新たなステップが増えていく。
そんななかでも、やはり、「恐怖」のようなものが空気に漂うのを、どうしても感じざるを得ない。
大使館からも、少年たちの邦人への嫌がらせが多発しているとの警告があった。
学校が閉鎖してストレスが溜まっているせいか、少年たちの非行が目立つ。
先日は、公園の歩道を歩いていると、ある女性がなにやら、私から遠ざかって立ち止まり、壁に寄りかかった。一瞬、気分でも悪いのかと思って、横目で見ていたのだが、
やがて手袋で覆われた手で口を覆い、まるで悪臭を放つハリケーン(私のこと)が通り過ぎるのを忍耐強く待つかのように、微動だにせずに、忍者のように壁にへばりついたのである。
確かに政府の保健機関が「ソーシャルディスタンス」を要求し、人との間に空間を設けるよう促されてはいるものの、さすがにここまでくると、傷つくどころか思わず「マジで?」と突っ込みたくなったのだが、
このような光景をこれから頻繁に見るようになるのかと思うと、なんだかゲンナリするのであった。
しかし、私はこの経験で、一つ気付いたことがある。
今まで、こちらで幾度か人種差別的な言葉を不良少年たちから浴びせられたことがあったのもあり、不良少年たちに対してあまり良い印象が無かったのだが
数か月前、街中を歩いている時に、向かい側から歩いてくる不良少年の集団が急に近寄ってきて
「ワンワン!」(ふざけて)と脅かされたことがある。
今思えば、彼らに対して、先日通り過ぎた女性まではいかないものの、
私の方が恐怖を丸出しだったのではないかと思う。
というのも、彼女が私に対してあからさまな恐怖心をさらけ出して壁にへばりついた時、
思わず、ドラゴン風に「ガオー!」と脅してみたくなった自分が居たのだった。
この心理はよく分からないが、人間ならば、ごく普通の反応ではないかと思う。
しかし、いまさらながら、あの少年たちに対して、申し訳ないと思うのだった。
大変なご時世だと、つくづく思うが、
恐怖心が引き寄せるものを、身を持って体験した今、
淡々と日々を過ごすことの大切さを思う。
自然界の掟に従いながらも
焦って背伸びをすることもなく、だからといって立ち止まることもなく、
浴びた太陽と雨の分だけ、毎日、1ミリずつ伸びていくお花のように、
毎日を過ごせたらいいと思う。
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