ある日、相方が突然「内的世界(インナー・ワールド)」という言葉にした。
今読んでいる小説に出てくるらしい。さらに詳しく聞くと、
登場する母親が内的世界に入り込む癖があるという設定なのだそうだ。
それからというもの、その内的世界という言葉がやたらに
私の脳裏から離れなくなった。
というのも私は、内的世界を持った女性が——特にそういう母親が、
昔から気になって仕方が無かったのである。
誰もが内的世界を持っているとは思うが、
私が言っているのは、ことあるごとに内的世界に引き戻される、
ひたすらに、そこへ連れ戻されてしまうような女性たちのことである。
そういう女性は、必ずと言っていいほど、目の奥に、ささやかな「隠れ場所」が見えるのだ。
そうしてふとした際に、 手招きされるように
隠れ場所に連れていかれる。
だからこそ、ここにいるようで、いないように感じられ、
一見、「留守」という印象を受けるのだが
私は、そういう、何者かに奪われてしまったようなまなざしが好きだったりする。
心の中の静かな、物音ひとつしない湖のような場所を思い浮かべる。
誰も触れることができない、水面がピンと張った、
波の影が一つも見当たらないような湖だ。
空気だって流れることなく、そこでじっとしながら、位置を一切変えない。
きっと、そういう場所を内的世界と言うのである。
以前、金子みすずさんの生涯を描いた舞台を観たことがあるのだが、
彼女も劇中で、その内的世界と、現実で向き合わなければならない子供との間を行ったり来たりしていた。
時には、どちらかを選ばざるを得ない葛藤さえも感じられた。
なぜだが私は、この舞台がやたらに心に響いて、周りがドン引きするほど泣いた記憶がある。
自分の創造性(内的世界)と、自分の母性を、どのようにして両立しているのだろうかというところに、なぜだか、昔からとても興味があった。
話は変わるようで、変わらないのだが、
最近、突然、発作のようにラグが買いたくなった。
殺風景な部屋が一つあるのだが、どうしてもその真ん中に、
一枚のラグを置きたくなったのである。
もうその考えが完全に私の頭を支配すると、昼も夜も、寝ても覚めても私の頭の中は「ラグ」でいっぱいになった。
相方も朝から晩まで私がラグの話をするので、さすがに煙たそうにしていたが、
それでも、私の意志は強く、もうこればかりは譲らないとばかりに、
ことあるごとに、カーテン屋やカーペット屋や家具屋の中を覗き、理想のラグを探し回った。
そんなある日、カナルの横を散歩していると、目の前に「RUG」と大きく書かれたお店が目の前に現れる。
そして、ついに、その店の奥に見つけたのである。
列を成すラグの最後尾に、私たちから隠れるようにして垂れ下がっていた。
私たちはまるで、かくれんぼうの鬼のように「見つけた!」とばかりに即決定し、
そのまま大きなラグを抱えて、カナル沿いを歩きながら帰った。
そうして持ち帰ったラグは、その殺風景な部屋に色味もサイズもピッタリで、
まるで、長年探していた伴侶を見つけたかのようであった。
不思議なことに、このラグがあるだけで、部屋が部屋らしくなり、
心地よさが生まれて、もっと長く居たくなった。何より、座りたくなった。
我が家は家の中で靴を脱ぐのだが、どうしても床に座る気になれない。
しかし、このラグを置くことで、床に座ることが多くなり、
改めて、床に座ると言う行為の持つ偉大さを噛みしめるのだった。
最初は乗り気でなかった相方も、たいそう気に入り、嬉しくて、
買ったその夜は、二人でラグの上をはだしでスキップした。
この上は、スリッパも、靴も禁止。
私の聖域だと、念を押す。
短期間だけ休暇を取る場所として、Getawayという英語があるが、
まさに、私の小さなお城の中のゲッタウェイである。
ラグの上に座った途端、すべての責任から解放されるような、
そういう怠惰な心地よさに包まれるのである。
茨木のり子の詩に「行方不明の時間」という大好きな詩がある。
人間には、行方不明の時間が必要だと言う。
「遠野物語の寒戸(さむと)のような
ながい不明は困るけれど
ふっと自分の存在を掻き消す時間は必要です」
そんな一説を思い出した。
内的世界っていうと、内向きや、現実逃避などと批判されてしまいそうだが、
行方不明の時間と言えば、許してもらえるのではないだろうか。
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