maimaiomaiのブログ

アイルランドと日本の狭間で 言葉を解き、紡ぎなおす者として

今夜の夕食はビーフかラムか

 

ダブリンならまだしも、アイルランドで日本人に出会うのは至難の業である。

意図的に日本料理店に行けば話は別だけれど(ちなみにダブリンには日本料理店がかなりある)、なかなか日本人と出くわすことはない。

そんな中、セントパトリックス・デーにとある教会に向かっていると、

ふと「Sweny’s」という看板が目につく。

「ああ、これが、例の…」

Sweny’sというのは元薬局である。アイルランドが生んだ偉大なる作家ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」という長編小説の中で、主人公がせっけんを買う場面があるのだが、その薬局の名がSweny’sなのだ。

今は薬局として機能はしていないが、今でも「ユリシーズ」の主人公レオポルド・ブルームが買ったレモンの香りがする石鹸が5€で販売されており、毎日、ジェイムズ・ジョイスの小説の朗読会が細々と開催されている。誰もが自由に参加することができ、何年もかけて、あの難解な本を1冊読みきるのだとか——。

 

 

 

教会のイベントに間に合うか合わないくらいかの微妙な時間だったのだが、不思議と何かに誘われるかのように、なんの迷いもなく相方と私は店内にフラフラと入っていった。

 

店内に入ってみると、ジェイムズ・ジョイスの本や資料が雑多にずらりと並べられている。歩けば、床がミシミシと言うような今にも倒壊してしまいそうなオンボロな建物であるが、なんとも趣があって愛着が湧いた。

ふと上を見上げると、日本語が視界に飛び込んできた。本棚にはジェイムズ・ジョイスの小説の日本語訳が数冊並べてあった。カウンターの奥では、20代前半と思われる男女が旅行者とみられる方たちに何やら熱心に例の石鹸の説明をしている。

 

 

何とも言えない雰囲気に魅せられて、私と相方はしばらく店内を何の目的もなく、ふらついていた。店内をふらつくといっても、8畳にも満たないほどの狭い空間である。

 

私は、記念にと、カウンターでそのレモンの香りのする石鹸を買うことにした。いかにも手作りというような、ワックスペーパーに包まれた愛らしい石鹸である。

カウンターの奥から「5€です」と言った青年は、とても好感が持てた。

そして、最初は分からなかったのだが、たわいのない会話をしているうちに、彼が日本人であることが分かった。

 

私が同じく日本人であると分かると、彼は即座に本棚に並べられている翻訳本を取り出したのだった。

こんなところで日本人に出会うとは思ってもみなかった。

 

 

彼は本棚からジェイムズ・ジョイスの最後の小説と言われている「フィネガンズ・ウェイク」の日本語訳の本を取り出した。非常に難解な小説で、言葉遊びが散りばめられており、凡人の私には正直、何かの暗号というか、古代の象形文字にしか見えない。

 

これを日本語に訳した翻訳家、柳瀬尚紀さんは、ジェイムズ・ジョイスの複雑な言葉遊びを尊重し、特別な辞書を調達して、辞書には載っていない漢字を敢えて創作したのだとか…。

 

「翻訳に10年かかったらしい。こんな本が出版できた時代があったんだね。良い時代だ。今ではあり得ない」

 

そんなことを、溜息をつきながら語る彼は、なんだか私よりも年上にも思えたけれど、

おそらく私よりも随分年下である。

 

あまりにも熱心に語るものだから、自分が翻訳を生業にしていることなど言える隙もなかった。

 

 

 

そういえば、先日読んだ記事に、「翻訳家として最も重要なことは何か」というような内容のものがあった。語学力、文才、語彙の多さ——。ええ、もちろん、それらは間違いなく必要なものだが、その記事を書いたベテランの翻訳家さんは、最も翻訳家に必要なのは「感動する力」であると説いた。

何かに動かされる能力。何かに動かされ、感動し、それを翻訳する。

きっと何かしらの形で、その「感動」が、言葉に反映されるのかもしれない。

最初から自分の「個性」を打ち出すのではなく、その動かされ、選択していく過程の連続の中で色づけられ、やがて自ずとそれが翻訳家としての個性となっていく。

 

 

ジョイスの小説「ユリシーズ」は6月16日の一日のうちに起こる出来事を書き記した小説で、今でも6月16日は「Bloomsday(ブルームの日)」としてアイルランドでは記念日となっている。人々はジェームズ・ジョイスがよく被っていた麦わら帽子を被って街中を練り歩き、偉大なる小説家の人生を祝福する。各地でその小説に因んだ映画の上映が行われ、カフェではジョイスの小説のリーディングが開催される。

国を挙げて小説家を祝うとは、なんと素敵なことだろう。

 

 

それにしても、このSweny’sは薬局としてはもう機能しておらず、レモンの香りのする石鹸を毎日数個販売しているだけで、後は、やたらと古い本がずらりと並べられ、毎日無料で朗読会を開催し、時たまこのように旅行客が興味本位に訪れる場所。しかし、入場料などはない。

一体、ここを何と呼べばいいのだろうか。

 

 

ついつい話に夢中になってしまった私と相方は、完全に教会のイベントに遅れてしまい、結局教会に入ることができなかったのだが、私はなんとも清々しい気分に包まれたのであった。

 

人生の、こういう何気ない出会いがいい。目的をもってそこへまっすぐ進む気持ちよさもあるけれど、ある時にふと道が枝分かれし、導かれる道草の先に、自分の想像を超えた何かに出会うことがある。そんな未知な世界に一瞬だけ、自分の人生を委ねたくなることがあるのだ。

 

 

そんなこんなで私たちはてくてくと家へ向かった。

 

特にセントパトリックス・デーだからといって奇をてらう必要もない。

今晩の晩御飯は、何にしようか。ポークにしようか、ビーフにしようか、あるいは、ラムにしようか。

あ、でも、ブッチャー(肉屋)はもう閉まっている時間だ。

 

アイルランドにはまだ肉屋で肉を、魚屋で魚を買う習慣が根強く残っている。肉屋さんのおじちゃんは、基本的に愛想がいい。

 

向こうは、1キロ単位で肉や魚の値段が書かれているので、少量でいくらなのかが全く分からないし、何グラムがどれくらいなのかもわからないので、「二人分」と言ったり、両手でチューリップを作るようにして「これくらい」とポーズをしたりする。そこで肉屋さんは、手袋で覆われた手で肉の塊を掴み、「これくらい?」と言ってくるので、「そうそう、それくらい」と答える。

 

中にはあまりにもお喋りで、放っておくと喋りに夢中になり、ストップをかけないと、どんどん肉を詰めてしまうおじちゃんもいる。

私は、こういう適当なやり取りが気に入っている。

そんなこんなで、肉屋や魚屋さんに行くのを毎回楽しみにしている。

 

 

確か、冷蔵庫にブロッコリーがあったし、庭にはまだケールが残っていた。

冬に採れたじゃがいもも袋の中に土をかぶったまま残っているし、昨晩のシチューの残りだってある。

 

そんな会話をしながら、夕焼けがとても美しかった、記念すべきセント・パトリックデーの帰り道。

 

 

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