ディングルというアイルランド最西端の街へ。
相方さんが撮影で数日間滞在する間、なぜか私も同行させていただけることになった。
ダブリンとは真逆の西の端にある街。さらに海を渡り西へ行けば、もうそこはアメリカだ。
今回の作品の監督さんは、この街出身らしいのだが、育ちの良さゆえの屈託のなさがあり、
人を決して歪んだ目で見ない——、そういう安心できる雰囲気があった。
というか、この街全体が、そのように接してきてくれる人達ばかりで
どこのお店へ行っても、非常に感じがいい。偏見の香りが一切しない。
素敵な家を一件まるごと借りて、キャストが全員泊まっていたのだが(なぜか私がそこに紛れ込んでいる…)、
現地に到着すると、頼んでいたはずのWifiがない——。
こちらでも仕事をするつもりでいたが、Wifiが無ければどうにもならない。
さて、どうしよう。
ネットも繋がらず、相方も撮影に行ってしまうので、完全に一人ぼっち。
ディングル湾のど真ん中に立ち、全く馴染みのない見知らぬ土地で広大な海と対峙した時、なんだかふと涙が出てきてしまった。
寂しさというよりはむしろ、目の前に繰り広げられる、ただ「在る」現実に「感動」したのかもしれない。
ネットがなければ人に聞くしかないので、片っ端からことあるごとに質問攻め。
しかし、この街の人たちは全体として人懐っこく、大変感じが良いので、なんだか徐々に楽しくなっていき、やがてどうでもいいことさえもわざわざ人に聞くようになっていった。
ネットがないと、こんなにも人と接する機会が増えるのか…
人生に起こる予想外なことは、必ずと言っていいほど、知らぬ間に空いてしまった穴を埋めてくれる。
そんな人生の手際の良さに、私は時折、恐れ多い気分になる。
ないものを嘆くのではなく、あるものを最大限に楽しむと、
その反動として、必ず次に良いものが巡ってくる。
短いフリーランス生活の中で養ったささやかな知恵である。
ああそうか、自分の心を見つめる良い機会かもしれない。
そんな「素敵」な言い訳が完成したところで、
しばし仕事のことは忘れ、このディングルという街を思う存分楽しむ覚悟ができたのだった。
滞在一日目、街中をフラフラしていると、街中で、ある広告を目にする。
可愛らしいイルカの絵に、「Fungie is Fantastic!(ファンギーはファンタスティック!)」という言葉が添えられている。
どうやらファンギーというのは、1983年にここディングル湾に迷い込んできて以来、ずっとここに住み着いている一頭のイルカさんらしいのだ。
それからというもの、ここディングルの観光名物になっているのだそう。イルカの平均寿命は、大体50-60歳くらいらしいので、ファンギーは中年イルカ、といったところだろうか。
同じイルカと毎回遭遇することに最初に気付いたとある漁師さんに因んで、ファンギーと名付けられたのだそうだ。
普段、観光名物には全く興味のない私なのだが、このファンギーちゃんだけは妙に気になり、ソワソワし始めてしまった。
「会いたい…」
私は早速ボートのツアーを予約した。
孫のオスカー君の面倒を見ながらツアー事務所を切り盛りしている、優しいおじさまが丁寧に対応してくれた。オスカー君は、私の甥っ子くらいの年齢。
仕事の最中もあちこちへ行きたがるので、おじさまに叱られ、ブスっとふてくされてカウンターの奥に座っていた。
ボートに乗って数分すると早速、船長さんが、「あそこにファンギーがいるよ!」と私たちの方へ向かって叫んだ。
彼が指さす方向へ眼をやると、とある夫婦が小さなモーターボートに乗り、小さな渦を何回も描いている。さらに目を細めてよく見ると、その周りを楽しそうに、クルクルと回るファンギーちゃんの姿があった。
本当にいた!
最初は、たまにつるつるとしたお背中を見せてくれるくらいだったのだが、やがてファンギーちゃんお得意(?)の宙返りやらなにやらを、大きな水しぶきをあげながら、私たちの前で次々に技を披露してくれた。
おそらく何十回何百回と観光客を舟でファンギーの近くにお連れしている船長さんも、「今日はサービス精神旺盛だな」と笑った。
最初は何気なく感動しながら見ていたのだが、一体これまで何人の観光客を楽しませてきたのだろう…と思うと、そのけなげな姿に泣きそうになってしまった。
体調の悪い日や、どうしても気が乗らない日もあっただろう。
一瞬、何かしらの「賞」を与えたいだとか、報酬を与えたいだとか、そんな思考に走ってしまったのだが、それ自体が人間のエゴというものなのだろうか。
ファンギーちゃんにとっては、もしかすると純粋なる「喜び」なのかもしれないし、私たちが思うよりも、はるかに「当たり前」なことなのかもしれない。
それにしても、40歳くらいとは思えないほどぴちぴちしていたし、顔は何回か一瞬見えたくらいだが、とてもハツラツとして、漫勉の笑みを浮かべているように見えた。
最近、よく20代の女子たちが私に向かって、「私はもう『おばさん』です…」と絶望的な表情を見せながら言ってくることがあるのだが、是非彼女たちにファンギーちゃんの姿を見せてあげたい。
海の底で毎日、秘密の筋トレに励んでいるのだろうか、
毎日2時(ツアーの時間)になると、腕の袖をまくり、鏡の前でポーズをしているのだろうか、
新たな技を開発し続けているのだろうか——。
そういう非現実的な光景が次々に目に浮かんだ。
降り際に、船長さんにファンギーの年齢を聞くと、40-50だと答え、
「もう少し長生きして頑張ってもらわないとね」と苦笑いしながら言った。
不思議と、イルカを観光業に使って金儲けしているという嫌な印象は受けなかった。
むしろ、長年連れ添った夫婦のように、二人三脚で必死にこの街を盛り上げているような印象を受け、まるで年老いた旦那に向かって「もう少し頑張って稼いでもらわないとね」と言っているように聞こえたのだった。
見返りを求めない、ひたむきなファンギーに心から拍手を。
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