maimaiomaiのブログ

アイルランドと日本の狭間で 言葉を解き、紡ぎなおす者として

消えたイルカ


 

「人間には行方不明の時間が必要です

なぜかはわからないけれど

そんなふうに囁くものがあるのです」

 

 茨木のりこの「行方不明の時間」の一節である。この詩を詠んだ時、ホッとしたのを覚えている。私は人と長時間一緒にいると疲れてしまう。静かな真空管の中に、ふと消えたくなる瞬間が多々あるのだ。

 

 約2年前、アイルランド最西端の街ディングルを訪れた。(以前のブログと多少内容が被るがお付き合いください)そのまままっすぐ西へ進み大西洋を渡ると、映画「赤毛のアン」で有名なカナダのプリンスエドワード島がある。カラフルな家が立ち並ぶ、のどかな港町だ。

 

   街へたどり着くや否や、笑顔が印象的なイルカのポスターに出会う。ポスターには、「ファンタスティック・ファンギー!」と書いてある。調べると、30年前にひとりでディングル湾に迷い込んだイルカらしい。以来、たった一人で毎日観光客を楽しませるようになり、「ファンギー」として、たちまち巷で人気になった。どこか哀愁の漂うファンギーの笑顔に惹かれ、すぐにツアーのチケットを予約した。幸い、2月のアイルランド西部では珍しいほどの晴天だった。

 

 船が港を出て10分も経たないうちにファンギーは現れた。嬉しそうに船の周りをスイスイと泳いだと思ったら、私たちの前で次から次へとお得意の技を披露した。調教師の指揮で芸を披露するイルカは水族館で見たことがあるが、ここまで嬉しそうに自ら芸を披露するイルカは見たことが無かった。最初は必死にシャッターを押していた私たちだが、やがて観光客全員がその手を止めた。船の中に、温かい沈黙が走る。

 

  心地よい静けさの中、ファンギーが飛ぶたびに上がる水しぶきの音だけが繰り返し鳴り響いた。船長さん曰く、ファンギーは40歳くらいらしい。「もう少し長生きしてもらわないとね」と苦笑いをして言った。動物を搾取している印象はなく、むしろ、長年連れ沿った旦那に対して妻が、「もう少し働いてもらわないと」と言っているように聞こえた。

 

 

 

 先日、ファンギーが行方不明になったとラジオで知った。7日間、街の住人総出で捜索したが、結局見つからなかったそうだ。連日の嵐のせいで、深い海に移動したという説もある。象は、死期が迫ると自ら墓場へ向かうというが、イルカはどうだろう。それとも、芸に勝る「良い人」が見つかって、晩婚を機に、どこか遠くの海で愛の巣を育んでいるのだろうか。

 

 コロナ禍で女性の自死が激増したと聞く。米ニューヨークタイムズ紙にも「完璧主義の概念が著名人の首を絞める」といった内容の日本の芸能界に関する記事が掲載された。アイルランドに移住してから、如何に日本人が真面目で几帳面か、痛感することが多い。良くも悪くも、こちらの人は「行方不明」になるのが得意だ。苛立つこともあるが、ギスギスしていなくて良いのかもしれないと、今は連絡がこなくても、約束を守らなくても、「ああ、行方不明の時間だ」と待つことができるようになった。

 

 

 むかし役者をしていた頃、稽古後に稽古場を掃除していると、事務所の社長が鏡に残っていた1センチほどの汚れを指さし、「この汚れを恥じてちょうだい」と言ったのを覚えている。当時は真に受けて背筋が凍ったが、自分の愛らしい「隙」として終わらせても特に誰にも迷惑はかからないはずだ。完璧主義は向上心につながるので、必ずしも悪いことだとは思わないが、それでなくても厳しいご時世だ。もう少し緩やかな社会になっても良いのではないか。

 

 

 ファンギーの写真が、週末の全国紙の一面に載った。相変わらず、あの愛くるしい、哀しげな笑顔だった。あれほど精いっぱい観光客を楽しませたのだから、多少行方不明になったって、誰も文句を言う人はいないだろう。それに、ある日またひょっこりと姿を現し、あの力強い芸を、何食わぬ顔をして披露してくれるかもしれない。弱っていく自分を見せないカッコよさ。潔さ。

 

 突然の「暗転」に戸惑いながらも、心からスタンディングオーベーションを贈りたい。

 

 

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