maimaiomaiのブログ

アイルランドと日本の狭間で 言葉を解き、紡ぎなおす者として

最後のひとかけら

言葉というのは、絶えず、かならず他の言葉とぶつかる。

ぶつかるというか、重なっていくわけですね。

                          井上ひさし

 

何かが足りないのは分かっているが、何が足りないのかが分からない。そんな悶々とした日々を過ごし、ふとある朝、歯を磨きながら、そのミッシングピースの正体が突然判明することがある。すると今までの悩みが嘘のように、すべてが滑らかに進む。そんなことが、人生には多々あるように思う。

 

ダブリンに暮らしていると、メンターシップという言葉によく出会う。日本でも、ビジネスの世界では多用されているみたいだが、芸術の世界ではあまり聞いたことがない。しかしアイルランドでは、演劇や舞台芸術の世界で、よく目にする言葉だ。

 

 

メンターは、よき指導者、相談相手、庇護者、よき師、恩師、などと訳される。自信がないのに押し付けられるのが苦手な私にとって、このメンターシップというシステムはまさに、私の創作生活におけるミッシングピースだった。

 

私の体験したメンターシップは、指導ではなく、尋問。押し付けることなく、見守る。いまだかつてないほど自分と向き合わざるを得なかったが、誰かに言われたのではなく自分で選択したのだという歴史が、自信につながった。

 

 

メンターは考えが甘かったり自分に嘘をついていたりすると、それを見抜き、スキをつついてくる。これはなんでなの、ここはどういうこと?ここは、実際どうやるの?などと聞かれていくうちに調べものも増え、本当はどうしたいのかを自分自身に問い続けていくうちに自ずと納得いく形が見えてくる。答えはいつも自分の中にあるのだが、人間である限り、どうしてもそこから目をそらしてしまう。そんな時、経験も知恵も豊かなメンターがそっと手を差し伸べる。

 

アイルランドでは、こういったメンターシップシステムが、駆け出しの作家や演出家を支えている。新人作家が書いた作品に対して、ディスカッション、ドラマツルギー面でのサポート、メンターシップなど、手厚いサポートシステムが沢山用意されている。こういういくつもの段階を経て、ようやく本が舞台に上がる。戯曲が紙の段階で完成とみなされることは、ベテランでない限り、ほぼないのではないだろうか。

 

 

外来語が雨のように降り注ぐ昨今。日本語が崩れている、と嘆く方の気持ちもとてもよくわかるが、私にとって、このメンターシップという言葉は、パズルの最後のピースように、すっぽりと私の身体にはまった。そういったところを見ると、やはり私は根無し草なのだと感じる。

 

異文化の未知の概念が自分とぴったり重なったとき、はじめて飛べるなんてこともあるのかもしれない。

 

 

飛ぶといえば、最近、あちこちで小鳥の赤ちゃんを見かける。庭に出ると、幼い小鳥の泣き声があたりに響き渡る。相変わらず、小鳥マニアとして、小鳥の赤ちゃんを追いかけては観察しているのだが、親の残酷な面が垣間見えて、興味深い。子供が病気だとわかると、巣から蹴落としたり、もう生き延びないと判断した瞬間、餌を与えるのをやめ、他の兄弟を優先する。そんなとき、人間が下手に介入するのはよくないのだとか。

 

先日、巣をはやく去りすぎた小鳥の赤ちゃんを見た。巣を出るタイミングを間違うと、赤ちゃんは生き延びることができない。

 

アーティストや作家にも言えることなのかもしれない。メンターシップはいわば、ひとりで飛べるまで、巣の中にいさせてもらえるシステムと言えるのかもしれない。

小鳥のように繊細な芸術家にとって、大事な最後のひとかけらのように思う。

 

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都会の香り

久しぶりに、都会の香りを嗅いだ。

 

東京も、パリも、ニューヨークも、同じ香りがする。不思議と、ダブリンはまだ都会の香りがしない。あの都会の香りは、一体何でできているのだろうといつも思う。

 

約二年半ぶりに飛行機に乗った。自分が参加しているメンターシップ・プログラムの奨学金の一環で、海外の作品を観に行く機会をいただき、ブリュッセルの芸術祭Kunstenfestivaldesartsに出向いた。どこの演劇祭/芸術祭も、観客の芸術に対する愛を感じる。会場内の温かい雰囲気がとても好きだった。そしてブリュッセルは、都会の香りがした。

 

 

一昨日、メンターシップ・プログラムのシンポジウムがアイルランド国立演劇学校内の会場で行われた。自分が創作している作品の中間発表のようなもの。舞台芸術を愛するコアな人たちが集まり、大変有意義な時間だった。

ただのプレゼンテーションとはいえ、異国の地で、自分が創作/執筆した作品を発表するのは、私にとって人生を揺るがすほどの大きな出来事であった。伝えるのは、意外と難しい。ましてや文化の異なる人たちに伝えるとなると、日本人に伝える時とは全く違う別の神経を使う。

 

しかし結論から言うと、予想以上に大きな手ごたえを感じて、感無量であった。終わった後、とあるアーティストさんから、「いつでも連絡してください」とメールアドレスが書かれた紙切れをいただいたり、国立演劇学校に通う若い俳優の卵さんたちが、この作品に出たいと自ら申し出てくれたり。また、年配のベテラン俳優さんは、「ボケた老人が舞台上を右往左往する作品を書いてくれないかな、それなら私も出演できる」とユーモアたっぷりにおっしゃってくださった。

 

 

会場のお客さんは、自分の書いたテキスト、一言一句、しっかりと耳を傾けてくださった。あのシンと張り詰めた緊張感は、一生忘れない。

 

根無し草であることが常にコンプレックスであったが、国境を跨いだ者だからこそできる表現があるのだと確信したのであった。他の参加者も、北アイルランドのアーティスト、クロアチアからアイルランドに移民としてやってきた演出家など、偶然にも、国境を跨ぎ、自身のアイデンティティーを問い続けてきた者が集まった。今回のメンターになってくださったフォースド・エンターテイメントのテリー・オコナ―氏には、感謝しかない。彼女のアーティストとして生きる覚悟、計り知れない創造性、多大なる包容力は、是非とも見習いたい。

 

 

まだまだ改良の余地はあるが、推敲を重ね、この半年で、ずいぶんと形が見えてきた。それは、テリーのサポートのみならず、インタビューに答えていただいた数多くの女性たち、読み合わせに協力してくださった日本の女優さんたち、私が書いたものにいつもダメ出しをしてくれた相方、豊富な専門知識を提供してくれた姉、そして何より、この素晴らしい機会を与えてくれたこちらの劇団PANPANシアター・カンパニー。本当にあらゆる人たちの協力を得たからこそ、ここまで来れたのである。

 

真に、心を開く難しさ。簡単なようで、難しい。いざやってみると、あっけないのだが、そこまでの道のりは時に驚くほど険しいのだ。そんな難しさを、この作品を通して描きたい。

 

これからが大変なのであって、まだ長い道のりであるが、大きな一歩であった。いつだったか、ナイジェリア出身のタクシードライバーが「こちらさえ心を開けば、向こうも開いてくれる」と言っていたのを思い出す。

いつものことであるが、一気に緊張が解け、終わった後は凄まじい頭痛と睡魔に襲われ、早めに打ち上げ会場のレストランを後にした。頭痛は酷かったが、清々しい気分であった。嗚呼、やっと一歩踏み出せた!と心の中で叫んだ。レストランのウェイターに爽やかに挨拶し、店から出ようとしたとの時……

 

「ゴン」

 

出口の綺麗に磨かれたガラス戸に気付かず、思い切り頭を打った。痛かった。目の前がチカチカするほど痛かったが、あまりにも恥ずかしく、何も起こらなかったふりをして、店を後にした。

 

きっとこれは、調子に乗るなよ、という神様からのお告げなのだろう。

「はい、承知いたしました」

そんなことを心でつぶやきながら、まだ都会の香りがしないダブリンの街をスキップしながら帰宅した。

 

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上手に忘れて

先日、とても懐かしい友人から連絡があった。

 

アメリカに住んでいた頃、仲良くしていた友人である。日本に帰国してからもしばらく文通していたのだが、いつのまにか連絡を取らなくなっていた。いつ、なぜ、連絡を取らなくなったのかは、まったく思い出せないが、彼女曰く、私が日本に帰国して1-2年後に阪神大震災が起き、そのあたりから突然、連絡が途絶えたという。私自身、まったく記憶がない。

 

アメリカから神戸、神戸から東京、東京からアイルランドと、どちらかというと移住を経験している方だと思うが、移住というのは予想以上に身体にストレスが加わるものなのかもしれないと最近になって思う。新たな地で前へ進むために、無意識にいろんなことを記憶から消しているのかもしれない。捨てなければ、前に進めないことがあるからだ。そういう意味で、移住した者の方が、その地に残った者よりも、記憶が薄められるのかもしれない。彼女にそう言われて、改めて、そんなことを想った。

 

 

移住して2年半が経ち、先日ようやく、滞在ビザの手続きを終えた。ロックダウンで手続きが滞り、時に爆発してしまうほど理不尽な想いをしたのにもかかわらず、いざ終えてみると、意外とすべてがあっけなかった。

 

やっとたどり着いた移民局での面接で「なんで、二年半もかかったんですか?」と面接官の方から不思議な質問をされたので、心の中で「こっちが聞きたいですが」、とつぶやきながら、

 

「入国して3か月以内に手続きを済ませる予定がコロナで面接が延期されて、しかもすでに面接を予約している方は優先的に自動的に再度予約されるとHPに書かれているのにもかかわらず半年待ってもまったく連絡がなく仕方なしに移民局に出向いたら門前払いされ電話番号もどこにも書かれていないので仕方なしにメールしたら何十ページにも及ぶ申請書のようなものを提出してくれと言われて提出した数か月後にまた同じような書類をもう一度提出してくれと言われて、やっと一時的な滞在許可が下りたと思ったらこの面接を予約するだけで5か月かかって結局ぜんぶで2年半かかったんですよね!」

と息継ぎなしに説明した。

 

相方は真後ろにある待合室で待っていたのだが、私の声はそこまで響き渡っていたらしい。その面接官の方は、「サンキュー」とだけ小声でボソっと言った。

 

 

そのあと、面接官の方が、「コンニチワー!」と言いながらパスポートにスタンプを押すのを苦笑いで見届け、「あなたの指紋、取りにくいですね」と言いながら、必死に私の指をスクリーンにぐいぐい押し付けるおじさんの青いゴム手袋をぼーっと見つめた。肩の荷は下りたが、涙を流すほどでもなかった。

 

ただ、移民局を出て一番にカフェで相方と飲んだ珈琲はとてもおいしかった。

 

予定や約束など、覚えていなければならないことは人生山ほどあるが、意外と忘れた方が人生上手くいくことの方が多いように思う。私と相方のモットーは、Forget not forgive であり、喧嘩しても、許す前に忘れる。そして、喧嘩の原因を忘れて困ることがあまりない。庭を訪れるコマドリの花子と太郎をふたりで眺めていると、いろんなことが馬鹿らしくなってくる。

 

 

花子はとても大胆で、ミミズを攻撃するのに必死。私たちの存在など、まったく気にしない。それよりも、ミミズをゲットすることとお風呂に入ることしか興味がない。一方、太郎は落ち着きがない。ヒマワリの種を取りに来ても、いつもびくびくしている。まっすぐミミズを追いかける、生命力あふれる花子を見ていると、なんだか勇気が湧いてくる。そんな花子は、私のアイドルなのだ。

 

懐かしい友人とやり取りをして、懐かしい気持ちでいっぱいになった。カラッとしたアメリカ人特有のオープンさに触れた時、ああ、懐かしい、と思うことがある。人は忘れる生き物なのだろうが、ふと何かの節に、細い針のようなものによって、何年も封じ込められていた空気がぶわっと解放されるようなことがある。

 

それは、いつか土の中に埋めたタイムカプセルを掘り出すような、子供の頃に書いたミミズのような文字を、土だらけの指でなぞるような尊い時間なのである。

 

これからも、上手に忘れながら、前を向いて歩いていこうと思う。

 

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劇場支配人の猫

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「作家の言葉をどれだけ吸収しても、常に新たな言葉を受け入れる余裕を持つ劇場の懐の深さ」

 

とは、かつて通訳でご一緒させていただいた演出家ルティ・カネルさんの言葉だ。

いつだったか、客席に座り、劇場の客電が落ちて劇がはじまるのを待つ間、妙に心が落ち着いた瞬間があった。「私は前世、劇場支配人の猫だったのかもしれない」ーーそんなことを思った。開場前、上手にあるお気に入りのバルコニー席の脚に尻尾を絡ませて、ゲネプロをニヤニヤしながら見ていたに違いない。そう、開場直前に、私は掃除係のスキを狙って、身体を席にすりすりさせ、自慢の黒い毛をすり込ませる。そうやって、そこに座った貴婦人の高そうなスカートに毛がつくのを見て楽しんでいたに違いない。最近、あの日の妄想が、今までになく腑に落ちはじめている。

 

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新たに始まるプロジェクトに向けて、先日、とある演出家さんによる演劇ワークショップを見学させていただいた。独自の演劇手法を何十年にもわたり確立してきた、創造性をとても大事にしながら生きている素敵な女性だ。

 

以前読んだ村上春樹河合隼雄の対談本に、物語の持つ癒しの力について書かれていたのを覚えている。その対談が、ワークショップ中にふとよみがえる。役者たちが、想像上の物体を身体的に探りながら、どこからともなく、物語が次から次へと産みだされていく。それは、自身の記憶や体験となにかしらつながっているのかもしれないが、あくまでも、その場で想像から生まれた完全なるフィクションである。

 

私たちの細胞の中に物語が眠っているとしか思えないほど、瞬間に身を委ねれば委ねるほど、役者の身体から物語が次々に産まれていった。身体の皮膚から、蝶々がはばたくような光景だった。誰もが、物語を伝えたいという欲求を抱えていて、ふとした隙に細胞の蓋があき、物語が昇華されていくのかもしれない。そしてそれは、人間が生きていくうえで、とても必要な癒しであるように思えた。

 

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若者たちの漲るようなエネルギーと想像力、演出家である彼女のパッション。そんな瞬間を目の当たりにして、コロナ禍で無意識に封じていたものが一気に解き放たれた。メンターシップ・プログラム奨学金の一環としていただいているトラベル・グラントの使い道を悩みに悩んだ末、重い腰を上げ、演劇祭への飛行機をぽちりと予約した。二年半ぶりの飛行機。まだ何かと気が抜けない世の中だが、そのボタン一つで、心が大きく前のめりになった。

 

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アイルランドでは、マスクを脱ぎ捨てた瞬間、ソーシャルディスタンスなど、もはや忘却の彼方。先日観劇したゲート劇場の『勝負の終わり』(サミュエル・ベケット作)は連日満席。ロビーでお酒を飲む人々、会場に響き渡る笑い声、会場内の熱気。劇場の客席にすっぽりと体をうずめながら、劇の最後、静かに、静かに照明がゆっくりと落ちていく間、思わずため息が漏れ、ベケットに手を合わせた。

 

やっぱり私の前世は、劇場支配人の猫であったにちがいない。

暗転になるとともに、私のささやかな妄想が確信に変わった。

 

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猫と女

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初めて人に会うと、この人は、犬派だろうか猫派だろうか、と勘繰る変な癖がある。

いつからそんな癖がついたのかは、思い出せない。

 

特に理由はないのだが、なぜかそういう無意味なことをしてしまう。だが、私が猫派か犬派かと聞かれると困ってしまうし、私は犬派でも猫派でもない。むしろ、アイルランドに来てからは、すっかり小鳥派である。

私の家族は猫とは無縁で、どちらかというと自分は犬派だと思い込んでいたところがあったのだが、最近、猫派の方々とのご縁が重なり、猫の魅力に魅了されている。

 

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先日、とある演出家さんの家にお邪魔してきた。

美しい黒猫が椅子の上で日向ぼっこしている。お胸の真っ白な三日月模様が愛らしい。媚を売らない感じが、とても好感が持てた。私が「可愛いね」、と満面の笑顔で言っても、無反応。「なにその嘘クサイ笑顔」と言わんばかりのしらけっぷり。

そこまではいかないが、その女性演出家さんも、歯に衣を着せず、人にこびない感じが少し、その猫に似ていた。かつて国立劇場で精力的に演出していた方。もうずいぶんご年配だが、今でも、常に頭の中で次の作品の構想を練っている。

 

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私が今創作でご一緒している私のメンターであるアーティストさんも、まったく動じない、ずっしりとした人。指摘がとても的確で、無駄がなく、口から真実しか出てこない。そういう人と話していると嘘が通用しないので、話しているうちに自分がしっかりと地に足がついて、自分の行きたい方向が見えてくる。

 

あくまでも私に権限があり、私が作品を書いている。

そこに、メンターである彼女が尋問をする。押しつけでも、アドバイスでもなく、尋問。しかし、答えられないことは、何かがあいまいであるということなので、おのずと自分で修正、または掘り下げようとする。依存関係にならない、素晴らしいメンターシップである。こういうやり取りを続けるなかで、自分でこの尋問ができるようになるのかもしれない。

そんな彼女も、愛猫家。私とのオンラインミーティング中に、猫が、そ知らぬ顔をして、フラフラと画面の中を横切る。

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こちらで出会う女性アーティストたちは、猫のように正直だ。

でも、なぜかきつさがない。正直でいることは、エネルギーを使う。ここ最近、そんな出会いが続いて、数日間半端ない疲労感に襲われた。ただ、清々しい疲れだった。

 

正直な人たちと接していると、自分が脂身の多い肉の塊のように思えてくる。

無駄がないと、話が深いところに落ちていくのがいい。媚びない猫たちにあこがれながら、細い道を爪先で歩き、せっせと創作に励む日々である。

 

ニュースで破壊されていく街の光景を目の当たりにしては、唖然とする。破壊は、あっけない。アイルランドは英国から独立してから、軍事的には中立国であり、NATOにも加盟していない。しかし、あまりにも理不尽な状況を目の当たりにし、「中立」とはいったいなんなのか、どういう意味なのか、毎日のように人々がラジオで議論している。

 

近くの公園にある木が、ある日、派手に伐採されていた。最初は痛々しかったが、1か月、数か月、1年とたち、当たり前のように、切り株の表面から、小さな枝を次々と生やしていった。外へ、外へ、また伸びていく。

切られても、切られても、当たり前のように、また小さな芽をはやし、枝や葉を創造していくこと。新たな創作のはじまりに、胸を膨らませる春。

 

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笑いの源

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何事も笑いに変換できる人が、とても好きだったりする。

 

笑いは輸入できないとよく言うが、思えばここ数年間、どうやってこのアイルランド戯曲特有のブラックな笑いを日本の観客に届けようか、悶々と考えていたように思う。このアイルランドのブラックな笑いはどこからくるのだろう。私の「ブラックな笑いの源を探す旅」は、そのようにはじまった。

 

そのきっかけは、4-5年前から訳しはじめ、熱意あるプロデューサーさんや、たくさんの方々のおかげで今回リーディング上演に至った戯曲「サイプラス・アヴェニュー」だ。北アイルランド紛争後のベルファストが舞台。ブラックどころではない。まっくろくろすけなこの作品を、最初は笑いつつも、ヒヤヒヤしながら訳していた。ちょっとホワイトを混ぜてみて、グレーにしてみようかと企んだこともあった。

 

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5年間、北アイルランド紛争を追い続けたものの、まだ追い切れていない。それほど、根が深い。5年は長いように思えるが、平凡なレベルの脳みそしか持ち合わせていない私には、それくらい準備期間が必要だったようにも思える。本をひたすら読んで分るものでもなく、北アイルランドの風景を見て、地元の人と触れ合いながら、少しずつ腑に落ちてくるものなのかもしれない。不思議と、この紛争や北アイルランドの歴史を探っていくうちに、このブラックさが気にならなくなっていった。むしろ、「サンマには大根のすりおろし」とか、「コロッケには千切りのキャベツ」というように、ブラックさがこの作品と切っては切れないものに思えてきた。

 

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先日、ベルファスト出身の男の子と話す機会があった。「サイプラス・アヴェニュー」の話をすると、即座に食いつき、「あの作品は真実味がある」と言った。彼の、繊細にすべてを受け止めつつも、自虐的なジョークを交えながら、なにかと会話を笑いに持っていく様子が、この戯曲の笑いと重なった。

 

一方、最近公開され、話題になっている映画「ベルファスト」はお気に召さなかったようだ。「あんなボンドガールみたいな母親、どこにもいないよ」と笑った。なるほど、それは確かにそうかもしれない。私自身も先日見たのだが、主役を演じた子役がとても可愛らしく、祖父母と親しむ様子は、自分の甥と両親の姿を思い起こさせて、ほっこりした。それに母国を離れている今、移民の話は何を見ても、涙腺が緩む。私の相方は、「僕も昔、母親がボンドガールに見えたものだよ」と、「美しすぎる母」は、気にならなかったよう。

 

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こちらは、自国を描いた映画にとても厳しい人が多い。「アンジェラの灰」は、「アイルランドだからって、さすがに雨降らせすぎだ」と雨のシーンの多さを突っ込み、ミッキー・ロークが元IRA隊員を演じれば、アイリッシュ訛りの下手さを指摘。スコットランド出身の監督によって作られた「マグダレンの祈り」も制作の過程でいろいろあったようで、否定的な人は多い。とにかく、外から自分たちが描かれることに、敏感なのかもしれない。しかし、突っ込み方にいつもユーモアがあって、聞いていておかしいのである。こんなときも、しっかりとユーモアを忘れない。

 

北アイルランドの歴史をたどる旅は、まだまだ終わりそうにない。

 

これは、こちらへ来てはじめて感じたことだが、翻訳した作品がどんどん愛されていくのを、海を越えて伝わることがある。見知らぬ土地に引っ越し、新しい学校に転校した子供が、ひとり、ふたりと、徐々に友達が増えていくような。作品は人に愛されると、自分の足で歩き出す。

 

この歪み。一見イビツに見える外側。それは私たちの内側にあるイビツさ。その裏側にある壮大な景色。

 

にわか雨が降って、「虹が出てきそうな天気だね」と言いながらふと左を見ると、見事な虹が見えた。

 

コロナの長いトンネルの出口はまだ見えないが、無事に上演されることを願って。 意を決して日本を発った二年前、ただただ漠然と日本とアイルランドの橋になりたいと思った。そんな願いが少しずつ、叶えられていく。

 

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【ワールド・シアター・ラボ 2022】

リーディング公演 2022. 2/17-20(東京・上野ストアハウス)

https://iti-japan.or.jp/announce/8049/

はじめまして。

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コマドリが手に止まるようになった。

 

近くのボタニカルガーデンに生息するコマドリさんたちがやたら人なつっこく、いつも私についてくるものだから、ひまわりの種を持ち歩くようになった。ひまわりの種を手の上に乗せ、手を前に差し出すとすぐに手の上に乗って、ひまわりの種に食らいつく。

 

目の前で見るコマドリは意外と小さい。手の平に接触するコマドリの足は、驚くほど軽やか。

 

ここまで人懐っこいのは、アイルランドと英国のコマドリだけらしい。他のヨーロッパの国々に生息するコマドリはそこまで人懐っこくないという。理由は分からないが、そんなことを聞くと、この子たちの正体は妖精なのではないかと疑ってしまう。それほど、彼らの表情は豊かで、それぞれにしっかりと個性がある。

 

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はたから見ると、コマドリと会話する孤独な外国人に映るのかもしれないが、私にとってはとても贅沢な時間なのだ。

 

贅沢といえば、最近はじまった、こちらのPANPANという劇団が主宰するメンターシップ・プログラムである。英国のシェフィールドに拠点を置くフォーストエンターテイメントのアーティストさんと自分の作品について語りながら創作していく。研究費/創作費のようなものも支給され、作品に思う存分集中できる。自分の作品に関係のある、海外の作品が見られるように、渡航費も割り当てられる。私にとっては、夢のような時間なのだ。

 

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今回ご一緒しているアーティストさんから、いろいろと嬉しい励ましの言葉をいただいたり、インスピレーションをいただいたりしながら、作品がどんどん進化していく。書き始めた当初は想像できなかったような方向へ導かれながら、会話を通して作品が粘土のように柔軟に変化していく面白さを体験している。

 

何かに固執せず、変化を受け入れる。これができるようになってきた。

自分がどうしたいか、どういう作品を作りたいか、何を伝えたいか。彼女の前で、一つ一つイメージを言葉にしながら、作品がどんどん腑に落ちていく。膨らませられるところまで想像を膨らませたあとは、無駄なものを削いでいく。この体験は、私にとって大きな自信になった。

否定ではなく、提案の連続。こういうやり取りの中で、作品がおのずとたどり着くべき場所に漂着する。とても気持ちがいい。

 

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テキストは日本語と英語を同時進行で書いているのだが、二つの言語を行き来しながら、それぞれの言語の異なる魅力を感じている。ある言語から違う言語へ「翻訳」をするというよりは、同じ物語を違う視点で「書きなおす」という方が近い。これは普段の翻訳の仕事にも大きく影響した。

 

アイルランドには、いいよ、表現していいんだよ、完璧じゃなくていいんだよ、というような緩やかな雰囲気がある。そんな広い器の中でコロコロと転がりながら、自分の中に潜む熱い泉に触れたような気がする。

 

お正月早々、今まで見たことがない鳥、マヒワベニヒワ、アオカワラヒワを目撃した。そんな体験と呼応するように、私の中で、新たな扉が次々と開いていくような気がしている。

 

「はじめまして」を連呼しながら、2022年がはじまった。

 

 

 

【ワールド・シアター・ラボ2022】

戯曲を通して世界と出会う 「ワールド・シアター・ラボ」2022

リーディング公演・日本初訳初演

★『サイプラス・アヴェニュー』(北アイルランド

作=デビッド・アイルランド

2月17日(木)19:00

2月19日(土)14:00

作:デビッド・アイルランド 翻訳:石川麻衣

演出:稲葉賀恵

出演:大森博史、那須佐代子、金沢映実、李そじん、大石将弘、森寧々

https://iti-japan.or.jp/announce/8049/

 

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