何事も笑いに変換できる人が、とても好きだったりする。
笑いは輸入できないとよく言うが、思えばここ数年間、どうやってこのアイルランド戯曲特有のブラックな笑いを日本の観客に届けようか、悶々と考えていたように思う。このアイルランドのブラックな笑いはどこからくるのだろう。私の「ブラックな笑いの源を探す旅」は、そのようにはじまった。
そのきっかけは、4-5年前から訳しはじめ、熱意あるプロデューサーさんや、たくさんの方々のおかげで今回リーディング上演に至った戯曲「サイプラス・アヴェニュー」だ。北アイルランド紛争後のベルファストが舞台。ブラックどころではない。まっくろくろすけなこの作品を、最初は笑いつつも、ヒヤヒヤしながら訳していた。ちょっとホワイトを混ぜてみて、グレーにしてみようかと企んだこともあった。
5年間、北アイルランド紛争を追い続けたものの、まだ追い切れていない。それほど、根が深い。5年は長いように思えるが、平凡なレベルの脳みそしか持ち合わせていない私には、それくらい準備期間が必要だったようにも思える。本をひたすら読んで分るものでもなく、北アイルランドの風景を見て、地元の人と触れ合いながら、少しずつ腑に落ちてくるものなのかもしれない。不思議と、この紛争や北アイルランドの歴史を探っていくうちに、このブラックさが気にならなくなっていった。むしろ、「サンマには大根のすりおろし」とか、「コロッケには千切りのキャベツ」というように、ブラックさがこの作品と切っては切れないものに思えてきた。
先日、ベルファスト出身の男の子と話す機会があった。「サイプラス・アヴェニュー」の話をすると、即座に食いつき、「あの作品は真実味がある」と言った。彼の、繊細にすべてを受け止めつつも、自虐的なジョークを交えながら、なにかと会話を笑いに持っていく様子が、この戯曲の笑いと重なった。
一方、最近公開され、話題になっている映画「ベルファスト」はお気に召さなかったようだ。「あんなボンドガールみたいな母親、どこにもいないよ」と笑った。なるほど、それは確かにそうかもしれない。私自身も先日見たのだが、主役を演じた子役がとても可愛らしく、祖父母と親しむ様子は、自分の甥と両親の姿を思い起こさせて、ほっこりした。それに母国を離れている今、移民の話は何を見ても、涙腺が緩む。私の相方は、「僕も昔、母親がボンドガールに見えたものだよ」と、「美しすぎる母」は、気にならなかったよう。
こちらは、自国を描いた映画にとても厳しい人が多い。「アンジェラの灰」は、「アイルランドだからって、さすがに雨降らせすぎだ」と雨のシーンの多さを突っ込み、ミッキー・ロークが元IRA隊員を演じれば、アイリッシュ訛りの下手さを指摘。スコットランド出身の監督によって作られた「マグダレンの祈り」も制作の過程でいろいろあったようで、否定的な人は多い。とにかく、外から自分たちが描かれることに、敏感なのかもしれない。しかし、突っ込み方にいつもユーモアがあって、聞いていておかしいのである。こんなときも、しっかりとユーモアを忘れない。
北アイルランドの歴史をたどる旅は、まだまだ終わりそうにない。
これは、こちらへ来てはじめて感じたことだが、翻訳した作品がどんどん愛されていくのを、海を越えて伝わることがある。見知らぬ土地に引っ越し、新しい学校に転校した子供が、ひとり、ふたりと、徐々に友達が増えていくような。作品は人に愛されると、自分の足で歩き出す。
この歪み。一見イビツに見える外側。それは私たちの内側にあるイビツさ。その裏側にある壮大な景色。
にわか雨が降って、「虹が出てきそうな天気だね」と言いながらふと左を見ると、見事な虹が見えた。
コロナの長いトンネルの出口はまだ見えないが、無事に上演されることを願って。 意を決して日本を発った二年前、ただただ漠然と日本とアイルランドの橋になりたいと思った。そんな願いが少しずつ、叶えられていく。
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【ワールド・シアター・ラボ 2022】
リーディング公演 2022. 2/17-20(東京・上野ストアハウス)