初めて人に会うと、この人は、犬派だろうか猫派だろうか、と勘繰る変な癖がある。
いつからそんな癖がついたのかは、思い出せない。
特に理由はないのだが、なぜかそういう無意味なことをしてしまう。だが、私が猫派か犬派かと聞かれると困ってしまうし、私は犬派でも猫派でもない。むしろ、アイルランドに来てからは、すっかり小鳥派である。
私の家族は猫とは無縁で、どちらかというと自分は犬派だと思い込んでいたところがあったのだが、最近、猫派の方々とのご縁が重なり、猫の魅力に魅了されている。
先日、とある演出家さんの家にお邪魔してきた。
美しい黒猫が椅子の上で日向ぼっこしている。お胸の真っ白な三日月模様が愛らしい。媚を売らない感じが、とても好感が持てた。私が「可愛いね」、と満面の笑顔で言っても、無反応。「なにその嘘クサイ笑顔」と言わんばかりのしらけっぷり。
そこまではいかないが、その女性演出家さんも、歯に衣を着せず、人にこびない感じが少し、その猫に似ていた。かつて国立劇場で精力的に演出していた方。もうずいぶんご年配だが、今でも、常に頭の中で次の作品の構想を練っている。
私が今創作でご一緒している私のメンターであるアーティストさんも、まったく動じない、ずっしりとした人。指摘がとても的確で、無駄がなく、口から真実しか出てこない。そういう人と話していると嘘が通用しないので、話しているうちに自分がしっかりと地に足がついて、自分の行きたい方向が見えてくる。
あくまでも私に権限があり、私が作品を書いている。
そこに、メンターである彼女が尋問をする。押しつけでも、アドバイスでもなく、尋問。しかし、答えられないことは、何かがあいまいであるということなので、おのずと自分で修正、または掘り下げようとする。依存関係にならない、素晴らしいメンターシップである。こういうやり取りを続けるなかで、自分でこの尋問ができるようになるのかもしれない。
そんな彼女も、愛猫家。私とのオンラインミーティング中に、猫が、そ知らぬ顔をして、フラフラと画面の中を横切る。
こちらで出会う女性アーティストたちは、猫のように正直だ。
でも、なぜかきつさがない。正直でいることは、エネルギーを使う。ここ最近、そんな出会いが続いて、数日間半端ない疲労感に襲われた。ただ、清々しい疲れだった。
正直な人たちと接していると、自分が脂身の多い肉の塊のように思えてくる。
無駄がないと、話が深いところに落ちていくのがいい。媚びない猫たちにあこがれながら、細い道を爪先で歩き、せっせと創作に励む日々である。
ニュースで破壊されていく街の光景を目の当たりにしては、唖然とする。破壊は、あっけない。アイルランドは英国から独立してから、軍事的には中立国であり、NATOにも加盟していない。しかし、あまりにも理不尽な状況を目の当たりにし、「中立」とはいったいなんなのか、どういう意味なのか、毎日のように人々がラジオで議論している。
近くの公園にある木が、ある日、派手に伐採されていた。最初は痛々しかったが、1か月、数か月、1年とたち、当たり前のように、切り株の表面から、小さな枝を次々と生やしていった。外へ、外へ、また伸びていく。
切られても、切られても、当たり前のように、また小さな芽をはやし、枝や葉を創造していくこと。新たな創作のはじまりに、胸を膨らませる春。
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