その昔、内なるものを外に出すとき、人は儀式を行ったという。
例えば、食を欲する心が、動物に向かって矢を射るという行為に発展するとき。一枚の設計図が、家に変わるとき。数十枚にも及ぶ台本が、何十名という役者や踊り子を動かすとき。冬の間眠り続けた球根の芽が、ついに硬い土を押し上げるとき。
こういう大きな圧が加わるときに儀式を行うのは、とても理にかなっている。
最近、おのずと、儀式というものについてじっくりと考えるようになった。
というのも、私自身が、儀式のようなフィルターを経ないと次へ進めないほど、勇気をかき集めなければならない瞬間に直面したから。
そのような瞬間は、誰しもが人生に一度は経験するのではないかと思う。
2月1日は、女性の聖人、ブリジットを祝う日だった。
アイルランドにいると、このあたりにならないと、年が明けた気がしない。このころになってようやく人々は、よっこいしょと重い腰を持ち上げる。
春の到来を祝うと同時に、キリスト教が広がる以前から存在した、創造の女神ブリジットを祝う日でもあるので、国を挙げて女性アーティストを祝福する。
全国各地で女性たちが集い、自分たちをねぎらい、創造性に浸る会が開催される。
イグサでブリジットクロスや、藁をぬるま湯に浸してブリジットをかたどった人形を創り、家の中に飾る。翌年には焼いて、灰をその土地に撒く。
このクロスを飾っていれば、家が守られるという言い伝えがある。近所の女性のお兄さんが、タバコの火で家を焼いてしまったとき、このブリジットクロスだけが綺麗に残っていたのだとか。逆に、同じ部屋に飾ってあったキリストの十字架は、真っ逆さまになってボロボロになっていたとその女性は笑いながら話してくれた。
無心で人形を創っていると、おのずと力が沸いてくるのが不思議であった。自分だけの「女王」が出来上がった後は、まさに自分が女王になったかのように、自信がふつふつと沸いて来るのである。
舞台創作のための助成金をいただいて、いよいよ、書いた作品を、演出家さんや俳優さんたちに渡し、スタジオで物理的に試す時期がやってきた。メンターたちのフィードバックをいくつか受け、何度も書き直し、やっと、何を描きたかったのかが、自分でも腑に落ちてきた。
まさに、内なるものを、外に送り出すとき。
一方、ゴミ拾いを始めてはや1か月が経つ。
ゴミ拾いの道具をそろえ、市指定のゴミ袋を手に入れ、ゴミ拾いボランティア・グループを探し、ゴミを出す指定の場所を聞く。
こちらは自治体の窓口があいまいで、何をするにも人に聞くしかない。ゴミを拾うだけでも、行動に移すまで、かなりのエネルギーを使った。
近所の、治安の悪さで有名な地域の住人たちがゴミ拾いを月一で行っている。以前は避けていた住宅街だったが、ゴミ拾いの成果もあって、数年前に比べ街全体が明るくなったような気がする。
ゴミ拾いで街のプライドを取り戻しているようで、とても微笑ましい。こういった草の根活動が、一番社会を変える力を持っているのかもしれない。
この地域のゴミ拾いは特に、時に信じられないものが落ちているので、社会勉強になる。
つい人が目を背けるものに目を向けることは、今の私にとって必要なことで、これも、ある種の儀式のようなものだった。
内に芽生えたものを、行動に移し、外に送り出す。
2月のはじめは、ゴミ拾いといい、ブリジットの日といい、多くの儀式を経験した。
外に開いていく光景に胸を膨らませながら。
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