For the Birds

アイルランドで詩を書く人のブログ

本音と建前

先日、旦那さんに、京都で食後にお茶を出されたら、「帰れ」っていう意味なんだよ、と言う話をした。

やや誇張された小話だとは思うが (元は、ぶぶ漬け)、京都の人にかかわらず、本音と建て前を使い分ける日本人の特徴を説明するのにとても便利なたとえ話だと思う。ただ、そんな話をしたときに、旦那さんは、「そのお茶は、無料なのか?」という反応がかえってきた。そういえば、こちらでは、どんなお茶であろうと、無料でお茶が出されることはない。

アイルランドで自分の演劇(?)作品を上演するにあたり、数々の話し合いや交渉を経て分かったことは、こちらで言葉を濁すようなことをすれば、何も理解されないで終わる、ということである。日本人同士では通用するようなオブラートに包んだ表現は、即座に蒸発してしまう。そもそも、口を濁す理由は、相手を傷つけないようにしているからだと思うのだが、それができない状況で、角が立たないように自分の意志を明確に伝えるのは至難の業だ。一時は、何を言えばいいのか分からくなり、メールを見るのも嫌な時期があった。

昔、夜な夜な歌を歌っていた銀座のクラブのママに、「あなたって、バロメーターみたい」と言われたことがある。外見と中身にギャップがあって、私と接する人を見れば、その人の本質が試される、という意味だったと思う。海外へ移住してもそれは変わらない。さらには、アジア人という外見がまとわりつくので、時折「ミステリアスで繊細な子羊」という見られ方をして、まるで私が子供であるかのような接し方をされることが多々ある。サッチャー首相が、首相になった際に声を劇的に落としたことは有名な話であるが、とてもよくわかる。こちらへ来て、おそらく私の声のトーンは1オクターブ落ちた。そうでもしないと、とにかく私の声も言葉も、空気と化してしまって、どこにも届かない。

ただ、私は何歳になっても、子供なのは確かなのだが。

この過程を経てつくづく思うのは、私たち日本人(簡単にひとくくりにはできないけれど)がいかに内向きであるかということである。特に表現においては、やはりこちらの表現の大半はエネルギーが外に向かっていて、この内向的な表現を理解していただくのに、時折苦労する。

ただ、内向きな自分を、内向きのままにしていてはどうにもならない。どうにかして内で渦巻いているものを言葉に落とし、文化の壁を乗り越え、誤解のないように相手に伝えなければならない。西洋の表現を押し付けられることがあっても、しっかりと、「いや、私はそっちの方向へは行きたくない」、と伝えなければ、誤解されたまま、自分のアイデンティティーを見失ってしまうだけである。

何よりも大変だったのは、クリエイティブ・チームや俳優から信頼を得ることだった。良い年をして、新たな地で人生を仕切り直したも同然な私にとって、5年かけて書いた脚本が唯一の身分証明書であり、名刺代わりであった。ステレオタイプを乗り越え、自分の能力を証明するには、まずは自分で自分を信頼するしかない。それが、想像を絶するほど難しく、かつてないほど自分と向き合ったように思う。それでも、どこの馬の骨とも分からない私を信頼してくださったクリエーター陣、俳優陣には感謝しかない。何歳になっても「初めて」がある。それは、ある意味、嬉しいことであり、希望である。

最近の演劇はやたらとリアリズムを求められるのだが、創作過程で私は執拗にそれを拒否してきた。メンターと亀裂が生まれたこともあった。私の中で、演劇には詩がなければ意味がないという、どうしても譲れない、強烈な想いがある。

リアリズムではない、詩であるという執拗な抗議は、私のこの外面は本当の私ではない、という飽くなき抗議と似ている。日常で演じすぎた私は、どうしても、内なる詩的な世界の方がリアルなのだ。

そのうち私もうんと年をとって、バロメーターではなくなって、白髪がどんどん増えて、本音と建て前の間に一ミリも空間がなくなって、私の存在そのものが詩になれば本望である。