どちらかというと、ペットや動物にはあまり縁のない人生を送ってきた。
一度、ハムスターと金魚を飼ったことがあるけれど、それくらいである。カリフォルニアに住んでいた頃は、アライグマが屋根の上に住んでいた。時々夜になると巨大なネズミのような風貌をしたオポッサムが庭をふらついていた。しかし、どちらも飼っていたわけではないので、一定の距離があった。
自分の身の丈に合わないような任務が重なった。私には無理です、と言える隙もなかったので、やり抜くしかなかったのだが、こうやって時々無理やりつま先立ちをしながら人は成長していくのかもしれない。あらゆる勝負時を乗り越えて、しばし一休み。
相方の映画の撮影に便乗し、ディングル半島へやってきた。オフシーズンの観光地に行くのが好きだったりする。観光客の「不在」に、ゆったりと浸るのがいい。雨宿りのために寄ったお土産屋はガランとしていて、雨のざぁざぁという音が鳴り響く。そんなときの店主との他愛ない会話は、どこか趣がある。
以前ブログにも書いたが、ディングルには、ファンギーという名物イルカがいて、何十年も観光客を楽しませていた。しかし二年前、ちょうど一回目のロックダウンが終った頃に突然姿を消した。ニュース記事では読んでいたが、真相を確かめるために土産屋の店主に伺ってみたところ、確かにファンギーは二年前に姿を消したそうだ。
もうかなり年だったそうだから、大往生で亡くなったのだろう、とか、遅咲きでついに真実の愛に目覚め、運命のお相手とどこか違う場所へ愛の巣を作りに行ったのだとか、あらゆる憶測が飛び交ったそう。
思えば民話なんていうのは、真相がつかめない、誰かが残していった「空白」からおのずと湧くものなのかもしれない。
いずれにせよ、ファンギーの失踪は、ディングルの人々の心に大きな穴を空けたようである。
私自身も、四年ほど前にファンギーを見たが、誰かに頼まれたわけでもないのに、繰り返し宙返りする姿に、純粋に人々を楽しませたいという健気なエンターテイメント精神を感じて、心打たれたのを鮮明に覚えている。
生き物には死がつきもの。だから私は、動物と密に接するのを避けてきたのかもしれない。
そんなことを思わせる、ある出来事があった。
コマドリの花子と、花子の子、たまちゃんが一緒に庭に来るようになってからしばらくして、たまちゃんだけが残り、花子が姿を消した。どこへ行ったのだろう、と思っていた矢先、ある朝、庭に出て小鳥たち用のひまわりの種を足し、ふと地面を見ると、野菜用のネットに羽が一つ不気味にぶら下がっていた。
ゆっくりとその下に視線を下ろしていくと、真っ赤なお胸をしたコマドリが目を開いたまま横たわっていた。一瞬、大きな鳥に攻撃されたのかと思ったが、そうではなく、どうやら羽がネットにひっかかり、もがいた末に力尽きて息を引き取ったようだった。
あれだけ私たちを楽しませてくれたコマドリが、私たちのかけたネットで死んでしまったのかと思うと、情けなくて言葉がなかった。まだ、猫やカラスに捕まった方が、気持ちが楽だったかもしれない。一時間早く起きて、ネットからコマドリの羽を解く光景が、何度も頭の中でループした。
しかし、相方と涙に暮れていると、いつもの位置にたまちゃんが姿を現したのである。てっきり、たまちゃんが死んでしまったのだと思い込んでいた私たちは混乱した。
ネットにひっかかったのは、花子だったのかもしれない。魂が去った抜け殻は、人格がなくて、誰だか分からない。奇妙な空白が、私たちの心の中に残った。
真相がつかめないと私たちはついつい追求したくなるものだが、そもそも自然というのは、こういうものなのかもしれない、とも思ったのである。自然は、むやみに説明をしない。
あの朝亡くなったのは、花子だったのかもしれないし、あの朝たまたま私たちの庭を訪れた見知らぬコマドリだったのかもしれない。ファンギーは、老齢のせいで亡くなったのかもしれないし、人間の身勝手さに嫌気がさして、ディングル湾を去ったのかもしれない。あるいは、噂通り、真実の愛に目覚めたのかもしれない。真実は、誰にも分からない。
すべてを埋めようとせず、空白を、放っておくのもいい。
ファンギーが残した空白に、西の女たちの豪快な笑い声が響き渡る。
西部の女たちの腹の底から湧き出るような土くさい声が、とても印象的だった。
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次回公演 「ダブリンの演劇人」(Ova9 第3回公演)
Dublin by Lamplight
作 マイケル・ウェスト IN COLLABORATION WITH THE CORN EXCHANGE 2022年12月6日〜12月11日