同じ言語が話せるからといって、コミュニケーションがとれるとは限らない。
アメリカにいたころ、近所に同い年のサラという女の子がいた。学校で同じクラスだったが、最初は教室ですれ違うくらいだった。それが、サラが病気をしたときに、母がずっと大事に育てていたバラを1本を届けたのを機に、サラとの距離が縮まり、以来、親友になったのを覚えている。
人との距離が縮まる瞬間というのは、思いがけない、ふとした瞬間であって、必ずしも巧みな言葉がきっかけであるとは限らない。
昔からコミュニケーションが下手な私は、小4の頃、神様からタップダンスという贈り物をいただいた。タップダンスは、これまでたくさんの素敵な出会いを引き寄せてくれた。魅せられて以来、私はダンスの神様にずっと守られているような気がしている。
そして、そのダンスの神様は、アイルランドまでついてきてくれたようだ。
先日、アイルランドの伝統ダンス、シャンノース・ダンスのクラスの今年最後のレッスンだった。毎週、近くの素敵なカトリックの教会で開催される。ロックダウン中ずっとキッチンで踊ってはいたが、広い空間で人と踊るのは気持ちがいい。開放的な空間で踊りながら、コロナで凝り固まっていた身体がどんどんほぐれていった。
先生も参加者も、とても良い人たちなのだが、私が日本人だからか、ぎこちなさや警戒心のようなものを少なからず感じていた。だからといって、無理に愛想を振りまいて鬱になっても困るので、いつか打ち解けるだろう、くらい気楽な気持ちで無理なく、淡々と過ごしていた。
とりあえず、ステップは全部しっかり覚え、一回も休まなかった。そういう簡単なところからはじめようと思った。
だが最終回のレッスンで、生演奏でソロで踊った際に、雰囲気が一変した。それまで感じていた壁が一気に溶けるように、踊り終わった後、温かい拍手に包まれ、みんなが次から次へと話しかけてくれた。「根っからのダンサーなのね」というある女性の言葉が嬉しかった。シャンノースは、技術はさほど重要ではなく、個性が大事。このリラックス感がとても性に合っている。アイルランドのトラディショナル音楽は、シンプルに心に入ってくる。久しぶりに、音楽に身を任せて足を踏み鳴らし、心が舞った。
このとき初めて、みんなの前で自己紹介(自己表現)ができた気がした。むしろ警戒していたのは私のほうで、やっと私自身が心を開いただけだったのかもしれないが、ダンスが境界線を越える瞬間を体験させていただいた。
苦手なものを克服するのもいいが、得意なものに時間を思い切り注ぐ方が楽しい。
作品も同じ。欠いた部分を嘆いて、上から何かを押しつけてしまうと作品が拗ねる。作品の個性を最大限に生かしたときに、作品は輝くのではないかと思う。
夏に上演した翻訳作品の映像を見ることができた。とても美しく、大好きな作品だが、構成的に上演するのが難しい。その作品が今回、リーディングと生演奏というシンプルなカタチを身にまとい、思いきり輝いていた。作品が、自分にぴったりの服を見つけたかのように、喜んでいるように思えた。
どんな作品も、自分に合ったカタチがあるように思う。リーディングだって、本公演になりうるのだと感じる。
日本に帰国した頃、ここがダメ、そこがダメと言われたものである。それは本当に「ダメ」なのか、ダメというレッテルを貼る前に立ち止まって、もう一度、違う角度から見てみたい。単に、自分が触れたことのない未知なるもの、というだけのことなのかもしれない。「広い」と思い込んでいる自分の狭い知識で、勝手な評価を下してはいないかと問いてみたい。知識を身につければつけるほど、そこは気をつけたい。
タップダンスがコミュニケーション下手な私を助けてくれたように。
不完全であっても、それぞれに合ったカタチがある。
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