以前、ナレーションの仕事をしていたとき、プロデューサーの方が、敢えてナレーターという言葉を避け、「ボイス・アーティスト」とおっしゃっていた。
なるほど、肩書を変えるだけで、ずいぶんと印象が変わるものだ。
北愛蘭のベルファストへ行ってきた。
コロナが長引いて、長らく行くのを躊躇していたのだが、
北愛蘭紛争を描いた戯曲のリサーチも兼ね、どうしても自分の目で見ておきたいものがあった。一見は百聞に如かず。結果、行って本当によかったと思っている。
北愛蘭紛争のウォーキングツアーに参加したのだが、そのツアーガイドさんが、ツアーガイドと呼びたくないほどの役者ぶりで、まさにストーリーテラーという言葉がぴったりだった。
正直、期待などなく、観光業の一環だと舐めていたところがあったのだが、予想を超える、有意義な二時間半だった。
北愛蘭紛争は、宗教の対立とみられがちだが、実際は、国家アイデンティティーをめぐる争いだった。そこへカソリックとプロテスタントの対立が加わり、火に油を注ぐように事態を悪化させたのだという。
ツアーガイドのマークさんは、たった一人で二時間半ぶっ続けで話し続けた。メモは一切見ず、死者数、けが人の数、事件が起きた年月と日付をすべて正確に記憶していた。
(私は必死にそれをメモしていた)
紛争や暴力について語る時、どうしても、片方の味方につきたくなるものだが、
最後まで中立を保ってらした。
かといって、人ごとのように話しているわけではない。
情熱は十二分にあり、とても私的な語り口であった。
私は、中道というものが一番難しいと思っているので、当事者として中立の立場で語れる方を心から尊敬する。
ストーリーテラーは、悲しみが眠るすべての地に必然的に咲く花のような存在なのかもしれない。
物語の中の登場人物すべてを理解しつつも、完全に感情移入をしない。
常に中道のようなものを保ち、ことあるごとに、ススっと品よくその軸へ退く。
それができるのは、その背後に、物語よりも力強い、物語を伝える原動力のようなものが潜んでいるからなのかもしれない。
マークさんの心の底には、そういった力強い使命のようなものを感じたのだった。
彼の最後まで徹底して中立を保つ姿勢は、見事だった。
ツアーが終った途端、15名ほどいた参加者から自然に拍手が沸き起こった。
ツアーのチケットが売り切れたのは、実に18か月ぶりだという。
最後に、マークさんは、「さて、私はどっちでしょう?カソリックかプロテスタント」と参加者に投げかけた。
ツアー参加者の多くが、彼のことをカソリックだと思っていた。
それはきっと、カソリック側が被った傷をしっかりと、自分のことのように伝えていたからかもしれない。
結果、彼はプロテスタントであった。
近頃は特に、この中道を保つ重要性を、つくづくと感じる。
いつだって右へ、左へ、引き寄せられて、感情に乗っ取られては、はっと我に返る。
時には、流れるままに流れたいこともあるが、
今はマークさんのような、微動だにしない力強い軸に、ちょっとした憧れを抱く私なのであった。
家に戻ると、小鳥たちが我が家の庭で、ふんぞり返っていた。
最近は、庭に若い小鳥が目立つ。若い小鳥は、餌を口にした後、消化を待つように数分間ボーっとしている。
あどけないが、どこか大人の鳥よりも何か大きな秘密を知っているような、達観した余裕の顔つき。そんな彼らを見ながら、私はいつどこで、その秘密を落としてきたのだろう、とふと考えるのであった。
「Plays 4 Covid 孤読/臨読~コロナ禍で生まれた海外戯曲~」
コロナ禍に4つの国で上演・配信された短編戯曲集。全作品日本初公開!
2021年9月16日(木)~19日(日)
シアターグリーン Base Theater(池袋演劇祭参加)
「橋の上のワルツ」(ソニア・ケリー作)
https://iti-japan.or.jp/info/7650/
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