先日、窓際の机で仕事をしていると、泥炭の香りがした。
もうすっかり秋である。
これから夜がどんどん長くなり、あの暗い冬が始まる。
いつも夕食の支度をする少し前の時間になると、暖炉で燃える泥炭の香りが微かに漂う。
私はこちらのTurfと呼ばれる泥炭の香りがとても好きで、
秋の冷たい空気の中に漂うその香りをかいだだけで、
心が妙に落ち着くところがある。
以前、「笑いの限界」と題した記事で、子供たちの「危険な花火遊び」について書いたが、
あまりにもこの「遊び」が加速し収拾がつかなくなったため、
警察が花火のための特別委員会を設置し、
先日ついにダブリンの西部で違法で売られていた花火を大量に押収した。
かなり多くの人達が被害を受け、放火にも発展していたので内心ほっとしている。
それでも、若者たちの奇抜な行動は後を絶たず、
あちこちで羽目を外す若者のニュースを耳にしては、うなだれてしまう今日この頃なのである。
しかし、何かと彼らは、「火」を起こす。
花火や大きな焚火など、やたらに火を起こしたがるのだ。
私は、「火」を思い浮かべるとき、おのずと情熱や怒りを連想する。
怒りと情熱というのは常に紙一重であるように思うし、
私の周りの女性は特に、そういった「火」を心の中に秘めた人が多い。
その怒りを糧に、モノ作りに奮闘する姿は、なんとも言えない美しさがある。
彼らは怒っているのかもしれないが、できれば、
その火を、創造に変えて欲しい。
それだけエネルギーがあるということであるし、
無気力になって人生に意味が見いだせなくなるよりは良いのかもしれない。
良い方向に変換されることを願うばかりだ。
そんな中、コロナ禍の中で移住の手続きがなかなか進まない。
進まないというよりは、たらいまわしで、
同じ場所を何度もぐるぐると回っているような気がする。
お役所さんたちは「あっち行け」「こっち行け」と指をさすだけで、そのたびに
私たちは右から左へ必死に走らなければならず、なんとも腹立たしい。
世界どこでも「お役所仕事」と「たらいまわし」はセットなのかもしれない。
おかげで、たびたび訪れる羽目になった移民局と言う場所は、
残念ながら、私にとってあまり近づきたくない場所になってしまった。
「移民」という立場であるというだけで、二流の人間として下に見られてしまう。
初めてそういう屈辱を味わった。
そして、「上」である立場を利用し、横柄になる人間を何度も見てきた。
きっと人間というのは気を付けていないと、
いとも簡単に、こうやって堕落してしまうのかもしれない。
その危うさに、ドキッとすることがある。
もちろん良い人もいるのだが、たいてい、あそこへ行くと、
理由もなしにキレられてしまう。
「キレたいのは、こっちの方ですが?」と言い返したくなるが、
そこはぐっとこらえて、
下に下に沈もうとする口角の筋肉を必死に引き上げ、じっと相手の目を見据え
「ありがとう」とニコリと笑って速やかに去る。
こういう理不尽な対応を受けた時、日本語であれ英語であれ、
たいてい感情に乗っ取られて
頭が真っ白になり、何も言い返せなくなってしまい後で後悔するのだが、
最近は、ただ事実のみをボロ、ボロっと腹の底からゆっくり述べて、
最後は、ぐっと腹に力を入れて、ニコッと笑い、「ありがとう」で閉める、
というやり方が一番いいという私なりの結論に至った。
当然のことながら、心の中では、「そんなことして、あんた、いいことないわよ」とつぶやいているが、それくらいの毒は許していただきたい。
こちらの人たちは、何せ喋るのが速い。
こんなに喋るのが速い人達と口論になったって負けるに決まっているし、
不毛な会話で終わるに決まっている。
こういう理不尽な扱いを受けることが多い一方で、
この国には、そういう扱いを受けた弱者を守る非営利団体が山ほどある。
打って変わって、そういう人たちは天使のように優しいのだ。
このギャップが、この国の面白いところである。
移民局で理不尽な扱いを受けた後、
私たちは真っ先に、ずっと替えたいと思っていた木製のトイレの便座を購入した。
「私から、便座を買う自由は誰にも奪えない」
と心の中で呪文のようにつぶやきながら、
レジのお兄ちゃんを威嚇するようにレジに並んだ。
ボロボロになったカウチのクッションも手縫いで作成し、
やがて私の怒りは無事に収まっていった。
生地屋さんのおじさんも、便座を買ったレジのお兄ちゃんも優しかった。
打たれ弱いが、立ち直りは早い。
大変なこともあるが、いろいろ学ばせていただいている。
やはり、人の気持ちは、
実際に同じ体験しなければ分からないものである。
こういった理不尽な体験も有り難く頂戴し、
糧にさせていただきましょう。
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